innocent smile 多くの兵士たちがごったがえす海岸で、笑い声が聞こえてくる。 これから戦に赴く兵達の中、親しげに声をかけ、笑顔を浮かべて歩き回っている気さくな王。 「遅いじゃないか。」 アキレスは親友でもあるその男に声をかけた。すると、3割増しの笑顔を向けて彼は手を振った。 「やはり生きていたか、アキレス。」 2人は歩み寄ると肩を並べて歩き出す。 「私達が遅かったんじゃないぞ、お前が早かったんだ。」 「俺が早いんじゃない、お前達が遅かったんじゃないか。」 そうして2人は声を出して笑った。 こんな何気ないひとときがとてもいとおしい。 自分をこの世に繋ぎ留めるものは多々あるが、これは中でも1,2を争う理由だろう。 「・・・オデュッセウス、あまり愛想を振りまくな。」 ぼそっとつぶやいた。 「ん?何か言ったか?」 「いいや、何も。酒が飲みたいなぁと思って。」 「そうか、じゃあ、後で一杯やろう。お前の所の兵士達も連れて来い。こっちの連中も合わせてみんなで飲もう。」 兵士には気を使うくせに、俺に関しては少々、いや、かなり疎い。・・・もうだいぶ慣れたけれど。 「わかった。連れて行くよ。じゃあ、後で。」 「待ってるぞ。」 ぱしん と手のひらを合わせてそれぞれの方向へ向かう。 明日は再び、戦いの場へ。 今は、ひとときのやすらぎを、君と。 きまぐれな来訪者 ある日、イタカ王オデュッセウスが定期的に行っている街の巡回から戻って自室に入ると、自分の ベッドに誰かが横になっているのが目に入った。 その瞬間、彼はその男が誰なのかわかった。一国の王の部屋でこんな真似をするなんてギリシャ中 探しても一人しかいない。 「・・・アキレス。」 「おかえり、オデュッセウス。今日も街の巡回か?ご苦労だな。」 ごろりと体を反転させ、ギリシャ一の戦士がこちらを向いて微笑んだ。 「また勝手に人の部屋に忍び込んだのか?」 セリフとは裏腹にどこか楽しげなオデュッセウスの声。 「まあね。表から入るのには色々と手間がかかりそうだったから。」 部屋の主に遠慮のカケラすら見せず、寝転んだまま話を続ける。 そんな傍若無人な親友に苦笑いを浮かべながら、オデュッセウスはベッドの側の椅子に腰掛けた。 「忍ぶのは女の部屋に入るときだけにしろ。万が一見つかって・・・」 「騒がれたら困る、か?」 「いいや。侵入者を捕らえようとした兵が、お前に怪我をさせられたら困る。」 2人は目を合わせると、一緒に声をあげて笑った。 少々偏屈で頑固な所のあるこの戦士がここまで無防備な笑顔をさらすのはとても珍しい。 たとえギリシャ一の美女と甘い一晩を過ごしてもこんな笑顔は見せないだろう。 「・・確か、また戦に出かけたんだったな。」 戸棚からぶどう酒の入った壜と陶器のグラスを二つ用意しながら尋ねた。 「ああ。アガメムノンの命令でな。」 途端に渋い顔を浮かべるアキレス。両者のいがみあいはオデュッセウスの悩みの種の一つである。 「・・・勝ったそうだな。」 「・・・自ら剣も振るわず、血の一滴も流さない者が一番の利を得る。ヤツのしてる事は、部下が 埃にまみれて血を流している間、椅子にふんぞり返っているだけだ。戦術や作戦は専門家がやってくれてる。そして死んだ兵の家族が悲しみに暮れている時には、どこぞの娼婦とよろしくやっている・・・ばかばかしい。ヘドが出る。」 この男はいつもそうだった。 例え勝利の後でも、自軍の兵たちに割れんばかりの喝采を浴びても、いつも決まって機嫌が悪くなる。 当の本人も、オデュッセウスもその理由を知っている。 だから、彼は度々ここを訪れるのだ。 輝かしい勝利も、人々の賞賛も、溢れるほどの財宝も、彼を癒す事はできなかった。 オデュッセウスは無言で酒をついだグラスを差し出した。アキレスはゆっくり起き上がるとそれを受け取り、 一気に飲み干す。 つう と唇から赤い線が一筋流れる。 「乾杯も無しか?御友人。」 そう言ってグラスを傾けるとオデュッセウスも酒を半分ほど飲み干した。 「・・・」 無言でグラスを差し出すアキレス。 やれやれ、と言った風にオデュッセウスはぶどう酒を注ぎ足そうとした。 ガシッ その手をアキレスが掴む。強い力で握りしめた。 拍子に注いでいた途中の酒が僅かにこぼれ、白いシーツに紫色のシミを作る。 「・・・アンタ程の王がなぜヤツに頭を下げる?ヤツの側で控えているのを見る度に腹が立つ。ヤツなんかよりも アンタの方がずっと出来た人間なのに・・・」 「アキレス・・・」 オデュッセウスは手首を掴む親友の手に空いている方の手をそっと置いた。 「私は、私の民が平和に暮らせるのならそれで構わない。」 「だが・・・」 「王にも色々いると思う。領地を広げ、国を豊かにしようとするのも王ならば、民を第一に想うのも王だ。アガメムノンのしている事は王たる者のすべき事のひとつだよ。」 「・・アンタは色んな意味で賢すぎるんだ。それで自分を一番犠牲にしてる。」 「・・・それも王として私の選んだ道なんだよ、アキレス。」 互いの瞳に映る自分の姿。 しばらくしてアキレスが視線を外し、手を放した。 「・・・ヤツに反旗を翻したくなったらいつでも言ってくれ。アイツの役立たずの軍なんて俺が捻りつぶしてやる。」 そう言うとぐいっと酒をあおった。その様子を優しい眼差しで見ているオデュッセウス。 そして自らも酒を飲み干す。 「・・・お前は優しいやつだな。」 きょとんと自分を見上げた金髪の髪をオデュッセウスは くしゃっ と掴んだ。 友人の行動に目をまんまるに開くアキレス。 心優しい王はこう思った。この友人は本当は辛いはずなのに、わざわざ人の心配をしてくれている。 ギリシャ一の戦士は思った。このお人よしで策士な王は、何を言っているのだろう。彼が当然受けるべき 賞賛を送っただけなのに。・・・甘えているのは、優しくしてもらっているのは自分なのに。 「・・・何だ、もう酔ったのか?イタカ王。」 「まだたった一杯だぞ?酔うわけがないだろう、戦士殿。」 そうして2人は空になったグラスを カツン と鳴らした。 この時だけは、自分が何者かを忘れられる。 自分をとりまく諸々の事から解き放たれる。 心知れた友人と共に時を過ごせる。 荒れ狂う嵐の様な激動の時代、台風の中の目のように穏やかな日々を、時を、誰もが持っていただろう。 この時代の先陣を切って走っていた者達とて、例外では無かったのだ。 |