夢で逢いましょう


 スペイン・ガリシア地方、ラ・コルーニャの自室で、ラモンは窓の外を眺めていた。
 四肢の自由を失った彼が、自分の意思で唯一見る事のできる外の世界がそこだった。

 その日は生憎の雨で、朝からしとしとしとしと、降り続いている。
 ラモンは瞳を閉じた。晴れた海が見たくなった。

 瞼の裏に世界が映る。
 ラモンはベッドから身を起こし、部屋の端へ歩く。
 くるりと向きを変え、窓に向かって走り出した。

 とくん

 心の臓が鳴った。
 刹那、彼の体は窓を突き抜け、外の世界へ。
 晴れ渡る、太陽が眩しいほどに照りつける世界へ。
 平野を飛び、丘を抜けて山を昇る。
 谷を泳いで、川を下り、空へ。
 雲間を遊んで、見慣れた海へ。
 愛するラ・コルーニャの海へと一気に滑る。

 砂浜を超え、蒼い大地すれすれの所を飛んでいく。
 時に空を見上げ、太陽に微笑みながら。


「・・・・ん?」
 ラモンは眼を疑った。
 遥か向こうの水面に、何かある。
 いや、誰かがいるのだ。
 今までに無かった事だ。
「いや、何でもアリだな。この世界は。」

 とにかく、一体誰かと心弾ませながら、ラモンはその人影に向かって飛んでいった。
 そこには、人がいた。蒼い水面の上に、タキシードを着た男。と、大きなピアノが一台。

「やあ、こんにちわ。」
「こんにちわ。」

  話しかけると、向こうもニコッと微笑みながら挨拶をしてくる。
「えっと、私が言うのもなんだが、君は誰だね?」
「僕は、ピアニストです。」
「ピアニスト?まあ、ピアノと一緒だからそうなんだろうが・・・名前は?」
 そう聞くと、男は小首をかしげ、しばらく考え込んだ。
「すみません、セニョール。名前を忘れてしまいました。」
「名前を忘れた?それはまた・・・気の毒に。」
「いいんです。問題ありませんよ。僕にはピアノがあれば十分です。」
「私はラモン。ラモン・サンペドロ。ここで会ったのも何かの縁だ。よろしく、ピアニスト君。」
「こちらこそ。」
 少し垂れた眼のピアニストが手を伸ばすと、ラモンは驚いた。
 彼が差し出したのは右手。しかしもう片方の腕も右手だったのだ。
「ああ、これですか。」
 ラモンの視線に気がつき、握手をしながらピアニストはカラカラと笑った。
「実は、事故で左手を失いましてね。でも、丁度良い左手が無かったものだから、右手をつけてもらったんですよ。」
 そう言って2本の右手を広げ、ブラブラと振ってみせた。
 その顔があまりにも陽気だったので、ラモンもふと心が弾んでくる。

「さて、セニョール。こうして巡り会ったのも何かの縁です。お急ぎでなかったら、一曲聞いていきませんか?」
「それは嬉しいな。私は音楽を聴くのが大好きなんだ。・・・ちょっと手足が不自由なもので、レコードでばかり聴いていた。生演奏は20数年ぶりだ。」
「・・・それはそれは。レコードは一度だけ録音した事があるけど、あれは音楽じゃない。」
「何もないよりはマシだからね。それでも気晴らしにはなったよ。」
「では、貴方の為の曲を。」
 ピアニストは背筋を伸ばし、ゆっくりと鍵盤に手を置く。
 ラモンはピアノの隣で宙に腰かけた。ピアニストの弾く様子が見えるように。
 数秒間、その世界に静寂が訪れる。
 ピアニストの一呼吸を合図に、音が流れ出した。

 初めは静かに、緩やかに。
 途中からミディアム・テンポに変り、時折弾むようなリズムで。
 そこから一気に流れが変る。速く、昇る様な旋律。徐々に強くなっていく音たち。
 それは音であり、感情であり、ひとつの意思を持つ生き物のようにピアノから溢れ出し、この世界を満たしていく。

  「ああ・・・」

 ラモンは感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。
 いつかどこかで聞いた事のある音。
 思い出すと辛いから、記憶の底に押し込めた想い出達。
 それが今、鮮やかな色彩と感情を持って、音と共に甦って来る。

 ピアニストは瞳を閉じ、体を震わせながら2本の右手を滑らせる。
 その手は時折3本あるかのようだった。
 ラモンもやはり眼を閉じながら、空を仰ぐように演奏に聴き入っていた。
 はらはらと涙をこぼしながら。

 曲は頂点まで高まり、徐々に静かさを取り戻し、やがて終わりを迎えた。

 ポロン――――


 その最後の音が鳴り止むまで、2人はぴくりとも動かなかった。

 パチパチパチ

 やがてラモンが拍手をする。
 その拍手でピアニストは顔を上げた。

「・・・素晴らしかった。・・・陳腐な言葉で申し訳ないが。」
「いいえ、最高の誉め言葉ですよ。気に入って頂けたようで、嬉しいです。」
「気に入るだなんて、あれは、今の音楽はまるで、その、・・・こういう言い方をするのも何だが、」
「どうでした?遠慮なく言って下さい。」
 ラモンは少し考えた後に答えた。


「あれは、私の人生のようだった。」


 それを聞いて、にっこりと満足そうに微笑むピアニスト。
「あなたは、さぞ色んなものを見てきたのでしょうね。わかりますよ。」
「19の頃船に乗って色んな国に行った。・・・その後事故で手足が不自由になり、30年近く寝たきりの生活を送っていた・・・人の世話が無ければ生きていけないんだよ。私の体は。」
 少し表情を暗くしながらラモンは呟く。
 すると、にわかに空が曇り始めた。
「ああ、ラモンさん。そんな顔しないで。ほら、あなたの心が沈むと、この世界まで暗くなってしまう。」

 ポロロロロロン♪
 ピアニストは つーっ と鍵盤を撫ぜ、しばらくつらつらと適当に鍵盤を叩いていたが、やがてひとつうなづくと、両手で鍵盤を叩き始める。
 それは軽快で小気味良いリズムで、ラモンは初めて聞くタイプの音楽だった。
 2本の右手が器用に鍵盤の上を往き来する。
 ラモンは思考を止め、その動きに目を留める。いつの間にか足が自然にリズムを取り、次第に体が左右に揺れ始めた。
 それをチラと見て、ピアニストは満足そうに笑うとさらに指を踊らせる。

  いつの間にか雲が晴れ、再び世界に陽が照り始める。
 海の上に涼しげな風が吹き、楽しげな音を乗せて飛んでゆく。

 海の上の2人の男は、音楽に合わせて楽しげに笑い、踊っていた。

 やがて音が鳴り止む。
「いやあ、ピアニスト君、実に愉快だ!こんな音楽を聴いたのは初めてだよ!!」
「ありがとうございます。今僕が奏でた音楽は、この世界とあなたがいたから生まれたものです。また新しい曲が生まれた。」
「私もその曲が生まれるのに一役かったわけか。実に光栄だね。」
 そう言って魅力的にウインクをする。
「しかし、君はさぞ名のあるピアニストなんだろうね。会えて光栄だよ。」
「僕もあなたの様な人に会えて光栄です。」
 もう一度がっちりと握手をする。
「ああ・・・」
 ラモンの手を握り締めたまま、ピアニストが小さく呟いた。
「どうした?ピアニスト君。」
「・・・ああ、セニョール。今思い出しました。僕の、なまえ・・・」
「名前?何というんだね?」
「ナインティーン、ハンドレッド。」
「ナインティーンハンドレッド?それは、数字じゃないか?」
「いいえ、いいんです。これが僕の名前だ。ダニー・ブードマン・TDレモン・ナインティーンハンドレッド。皆は僕の事をナインティーンハンドレッドと呼んでいた。」
「ナインティーンハンドレッド。変った名前だね。」
「ええ。でも、父がつけてくれた大切な名前です。良かった、思い出せて。・・・なかなか名乗る、という機会が無かったからなぁ。」
 そう言ってナインティーンハンドレッドはからからと笑った。
 名前を忘れるなんて大事(おおごと)なのに、それをあっけらかんと笑ってしまうその人が不思議だった。
 まるで、子供のような。この世の人ではないような。

「その、ナインティーンハンドレッド、こんな事を聞くのもなんだが、貴方はどうしてこの世界に?事故か何かで?」
 ナインティーンハンドレッドはピアノの椅子に腰かけると、手を合わせた。
「ええと、そう、ですねえ。私は、船の上で生まれました。その後もずっとその船の中で暮らしていました。その船はイギリスとアメリカを結ぶ大きな客船で、そこでピアノを弾いてたんです。でも、やがて戦争が始まって、その船は病院となりました。それでも僕はまだそこにいた。やがて戦争も終わってその船が廃船になって、爆破される事になったんです。その時も船にいたので、そのまま。左腕もその時に失くしました。」
 ゆっくりと、ひとつひとつ思い出す様に語る。その一語一句を漏らさぬように聞き入るラモン。

「なぜ、そんなに船にこだわりを?」
「ええ。それは色んな人に聞かれたけれど。僕は船で生まれて、船で育った。何一つ私の身分を証明するものがなかったんですよ。船が僕にとっての世界だった。それに、陸は、街は広すぎる。そこでは、僕は僕の音楽を奏でられなかった。そして僕から音楽は切り離せないもので、だから、僕の世界が終わる時、僕の人生も終わるべきだと思ったんです。・・・後悔は無いですよ。」
 懐かしげに過去を語り、結びの部分でにこり、と静かに微笑んだナインティーンハンドレッド。
「・・・私も。」
 ラモンも静かに口を開く。
「私も、私の世界が閉じられてしまった。今やこの体は牢獄なんだ。本当はこの世界の様に、自由に外へ出たい。だけど、できない。だから、私は、私の体から私の魂を開放してやりたいんだ・・・私はまちがっているだろうか?」
 ナインティーンハンドレッドは答えた。

「貴方が間違っているかどうかなんて、どこの誰が決められるんです?」
「!」

 何を期待していたんだろう。

 『あなたは間違っていない。』

 そんな言葉が欲しかったのか? どこかで安心したかったのだろうか。
 いや、違う。
 だれかに背中を押してもらいたかった訳じゃない。

「・・・やっぱり君に会えてよかった。ありがとう、ナインティーンハンドレッド。」
 ハグを交わす2人。
 チチチ と小鳥の声が風に乗って飛んできた。

「さて、名残は尽きないが、そろそろ戻らないと。」
「今日は楽しかったです、ラモンさん。」
「私の方こそ、とても素晴らしい体験だった。」
 胸に手を当て、深々とすました様にお辞儀をするラモン。
 それに合わせてお辞儀を返すナインティーンハンドレッド。
 そうして2人の紳士は顔を見合わせて微笑んだ。

 ふっ と宙に浮かぶラモン。
 帰る時間がきたのだ。
 上へ上へ昇っていくラモン。その途中、くるりと振り返った。

「ナインティーンハンドレッド、また、会えるかね?」
 ナインティーンハンドレッドは答えた。
「また、夢の中でお会いしましょう。」

 その言葉になぜか安堵を覚え、ラモンは目を閉じた。



「・・・・」
 再び目を開けると、ラモンは見慣れた自分の部屋にいた。
 側にはマヌエラが立っている。
「あら、起こしちゃったかしら?」
「いや、大丈夫。」
「雨があがったから、窓を開けようと思って。」
 カラカラと窓が開く。
 すうっと涼しい風が入ってきた。
「気持ちいいでしょ?」
 目を細めるマヌエラ。

「ああ。とても気持ちいいよ、マヌエラ。とても。」


 灰色の雲間から光が射している。
 土と森と、そして僅かな潮の匂いが風に乗って届く。

 ポロン

 微かにピアノの音色が聞こえたような気がした。  


                                             END  



アトガキ
 はい、書いてしまいましたよ。100%自己満足のSS

  他じゃ絶対見られない、という自負があるSS第2弾!!。

 今回は『海の上のピアニスト』と『海を飛ぶ夢』のコラボでございます。
 お前ホント、海の上のピアニストが好きだなあ、というよりは、むしろ、1900とラモンの境遇がちょっと似ていたからなんですよ。何となく、海を飛ぶ夢を見ながら、ああ、どこか1900を想像させるなあ、とか思ってたんですよ。
 で、共演させてみました。途中ちょいと説明くさい一説がありますが、互いのことは知って欲しいなあ、と思い、そのまま載せました。映画を御存じない方(はきっとこのSSを見て無いと思いますが)の為にも。
 これを書きながら、綺麗な海を想像していました。ああ、海行きたいよー。今年こそ実家に帰省したら海いってやる。
 まあ、とにもかくにも、少しでも面白いと思って下さればw