その日、メリック博士は精神管理センターでいつもの如く仕事に追われていた。 不調の兆しがあるアグネイト達を呼び出しては辛抱強く話しを聞き、原因を探り、適切な対応を施していく。 彼らの中には誕生してから1,2年でその役目が来る者もいれば、クライアントの都合で 数年間施設に留まる者もいる。そんな数多のアグネイト達の中でも最近メリックの 関心を引いているのが、施設暮らしが間もなく3年目になるリンカーン・6・エコーだった。 彼はこれまで何度かメリックの世話になっており、その行動や思考からやや注意の必要なプロダクトとされている。 だが、今日彼がセンターに呼び出されたのは、何か問題を起こした訳ではなく、各種データがもたらした 【精神不安定】という結果が原因であった。 「ここへ来るのは久しぶりだな、リンカーン」 そう言ってカルテを眺めながらメリックは椅子を勧める。 「微熱が続いたり気分の上下が激しかったり。かと思えば仕事でミスを連発したり…いつもの君らしくないな。 何かあったのか?」 どちらかと言うと問題を起こして叱られる事の方が多いのだが、今回は珍しく 労わりの言葉を向けられ、入室してからずっとうつむき加減で口を開いていなかったリンカーンは 思わずちらりと視線を上げた。 一方メリックは、普段から問題を起こしていたリンカーンの殊勝な姿を珍しいと思うと同時に、 彼をこの様にした原因が何かあるはずだと、医者としての思考を頭に巡らせた。 「…博士。本当に何でもないんだ。誰にだって調子の悪い時ってあるだろ?」 「…」 いつもと変わらない調子で話し始めるリンカーンをメリックは椅子に深く腰掛けながら観察する。 僅かに逸らされた視線はきょろきょろと空を動き、向かい合っている体は少し斜めを向いている。 そして、いつもよりやや速い口調やどこか演技じみている言い回し…疑うポイントは沢山あった。 「リンカーン。嘘は良くないな」 その言葉に一瞬瞳が大きく開くのを確認すると、メリックは小さく溜息をつく。 「私に嘘が隠し通せると思ったのか?甘く見られたものだ」 最後は幾分残念そうな趣を含みで言ってみる。 「! そんなつもりじゃない」 「じゃあ、どういう事なのか聞かせてもらえないか?…君が心配だから言っているんだよ」 ようやく向き合ったリンカーンをじっと見つめながら、メリックは姿勢を正す。 一体リンカーンに何が起こっているのか。医学的な見地からも、個人的な好奇心からも その理由が知りたいと思っていた。 そのメリックの真意が 表情や言葉の中から感じられたのだろう。しばらくうつむきながら 悩んでいたリンカーンだったが、やがてぽつりぽつりと話し始める。 「…何となくおかしいと思い始めたのは、多分、2週間くらい前だと思う」 2週間前。その日にちに何かひっかかるものを感じたが、今は話に集中すべきだとメリックは思い直す。 「その、何かソワソワすると言うか、落ち着かない気持ちになったんだ。 自分でもおかしいなって思った。だから理由を考えてみたんだ」 ここで一旦言葉を区切る。その顔は僅かに赤みを帯びていた。 慎重に言葉を選び、それを一生懸命声にしている事がひしひしと伝わってくる。 「それで、理由はわかったのかい?」 リンカーンはぎゅっと自分の腕を掴み、しばらくの間ためらっていたが、 やがて意を決して口を開いた。 「ねぇ、博士。2週間前に何があったか心覚えは、ない?」 「えっ」 不意を突かれて思わず声をあげるメリック。先ほど感じた違和感は間違いではなかったのだと 思い、2週間前に何があったか、自分は何をしていたか記憶を辿る。 「2週間前と言えば…私は急用で不在だったはずだが、特に何か問題があったとは聞いていない」 本当は出張で不在だったのだが、アグネイト達にはそう言い渡してあった。 出張期間は2週間で、今から2週間前と言えば出張に出てから1週間程経った日に当たる。もちろん、 施設の様子やアグネイト達の報告は毎日受けていたが、特に問題は無かったと記憶していた。 「…博士がいなかった、ってのが問題だったんだよ。…俺にとってはね」 「どういう事だ?リンカーン」 自分が不在だった事とリンカーンの不調とか結びつかず、眉を寄せながらメリックは目の前の青年に問いかける。 「っ…ああ!だからっ!!」 自分の思いを上手く言葉にできない苛立ちとそれをわかってくれない目の前の相手に痺れを切らし、 リンカーンは勢いよく立ち上がり二人を隔てているデスクをひょいと乗り越えた。 「!?」 何か言おうとしたメリックはその言葉を失う。 リンカーンが力いっぱいその身に腕をまわし、抱きしめてきたのだ。 思わぬ行動にメリックの頭には疑問符ばかりが浮かぶ。世界に誇れる優秀な頭脳を持ってしても、 どうしてこんな状況になっているのかさっぱり理解できなかった。 その行為が禁止とされている接触だという事すら 忘れていた。 「…」 メリックの白い首筋に自分の頬をすり寄せる。 ふわりと大好きな人のにおいが香り、それがひどく懐かしいと感じた。 「リンカーン!」 ようやく我に返り、メリックが声を少し荒げてリンカーンの肩を押し返す。 青い、夏の日の空の様な瞳がこちらを見ている。意外にもリンカーンは苦悶の表情を浮かべて、 すがる様に翡翠の瞳を見つめていた。 「リンカーン、」 「教えてよ!」 強い語調でメリックの言葉が遮られる。 「博士は頭が良いんだろ?じゃあ、俺のこの感情は何なのか、教えてくれよ! 博士がいなくて、1週間位経った頃から、どうしてかわからないけどイライラする様になった。 いつもは軽く流せる会話とかやりとりがすごく煩わしくなった」 メリックの腕を掴みながら、リンカーンは話し出す。 「自分でも不思議だったよ。今までこんな事なかったからさ。だから理由を考えてみた。 自分でも初めてって位たくさん考えて、ようやく答えに辿り着いたよ」 メリックはこれまで多くのアグネイトを見てきたが、こんなに感情に満ち溢れた固体を見たのは初めてだった。 その迫力に気圧され、戸惑いながらも次に紡がれる言葉を待つ。 自分の腕を掴む腕がさらに強くなった。 「…博士。アンタがいなかったからだ」 「…」 ようやく言えた。 今の今まで、ずっと言えなかった事、言って良い事なのか駄目な事なのか、リンカーンにとっては いくら考えて考えて考えてもわからなかった事を、ようやく言いたい相手に言えたのだ。 理由はわからないが、答えを知る事よりも 相手に、メリック博士に伝える事の方が大事なのではないか という考えが頭をよぎっていた。 「ねぇ、博士。俺は何かの病気なのかな?博士なら治せる方法、知ってるんだろ?何とかしてくれよ…」 胸につかえていた言葉が流れていくと、今度はまた別の感情が頭に押し寄せてくる。 どうしてこんなに苦しいのか、自分は病気なのか、博士は答えを知っているのか、この感情は何なのか、どうしたら消えてくれるのか、 消える事が正しい事なのか、どうして自分はこんなに感情的になっているのか… 色んな感情が押し寄せて今のリンカーンでは処理しきれなくなったのか、体中から力が 抜けていきふらりと体が大きく揺れる。 重力に耐え切れず落ちていく体を支えてくれたのは、大好きな博士だった。 せっかく大好きな人と二人でいるのに、どういう訳か眠気が襲ってくる。視界に映る 博士が心配そうな顔で自分の名前を呼んでいるのが微かに聞き取れた。 「リンカーン、リンカーン!大丈夫か!?」 程好く低い心地良い声が体中を巡る。そうしてリンカーンは瞳を閉じた。 「…ん?」 ベッドの上でリンカーンが目を開けると、白い天井と照明器具が見えた。 「目が覚めたか」 「博士!」 どこか難しそうな顔をしたメリックがベッドの側で控えていた。 「あれ…俺、確か倒れちゃって…」 「興奮し過ぎたんだ」 短い溜息をつくメリック。ふと視線を下ろすとその白衣の袖を自分がしっかりと握っていた事に気がつき、 慌てて手を放した。そうして自分が何を言ってどうなったのかを思い出し、幾分気まずさを覚える。 「あ…博士。何か、色々迷惑かけちゃったみたいで、ごめんなさい」 「まったくだ」 眼鏡の奥から厳しい視線が、薄い唇からはいつもの手厳しい声が返ってくる。 「でも、博士。何か、色々言ったらスッキリしたよ。その、俺、多分メンドウな事聞いたんだよね?」 上体を起こすと澄んだ頭で言葉を選ぶ。 あの言葉にできない感情が何なのか、気にならないと言ったら嘘になってしまうが、 何故かわからなくても良いと思えた。その事で悩んでいてもかえって博士に迷惑をかけてしまうし、 例えわからないままでもこうして博士は心配してくれるし、自分が博士を好きな事も変わらない。 きっと、ストレスとか働きすぎだったんだろう。そう思う事にした。 「リンカーン」 「!」 不意に添えられた手に驚きを隠せないリンカーン。 博士の方から禁止されている接触をしてくるなんて、まるっきり想定外の事だった。 「え、は、博士!?」 戸惑うリンカーンに構いなしに、メリックは両の手でリンカーンの掌を包む。 「リンカーン。私は医者のくせに、君の疑問に答えられない」 違う。答えならわかっている。だが、それが答えだと認められないのだ。 「普段偉そうにしていながら、情けないよ」 ふっと自嘲気味な笑みを浮かべる。 わかっているのだ。この施設の所長として、責任者として、その答えを認めてはいけないという事を。 「博士…」 初めて見るメリックの表情に戸惑いながら、リンカーンは空いている手を恐る恐る重ねた。 メリックの手はぴくりと動いたが、その手を払う事はなかった。重なった手は次第に 温もりを帯びていく。 先にその手を解いたのはメリックだった。 「今日の診療は終わりだ。戻りなさい」 「…はい」 ベッドから降りたリンカーンを戸口まで導くメリック。 「博士。また何かあったら相談に来てもいいかな?」 くるりと振り返ったリンカーンが、いつもの口調で尋ねてきた。 「ああ。構わない」 そう言って僅かに笑みを向けられた事が嬉しくて、リンカーンも思わず微笑んだ。 「…ようやく、笑ったな。今日はずっと仏頂面だったのに」 「仏頂面は博士譲りだよ」 「言ってくれるじゃないか」 「まぁね。それじゃあ、博士。また」 言うが速いか、リンカーンは少し背伸びをするとメリックの頬にキスをする。 そしてあっけにとられているメリックを愉快そうに見ながら駆け足で部屋を出て行った。 END |