概要:切り裂きジャックは、19世紀末・ヴィクトリア朝のイギリスの首都、ロンドンのスラム街であるイースト・エンドで売春婦ばかり5人を殺し、その正体は明らかにされないまま消えていった連続殺人犯である。 ○切り裂きジャックの名前 『切り裂きジャック(Jack the Ripper)』という呼び名は、第2と3,4の事件の間、9月27日にセントラル・ニューズ・エージェンシーという通信社に届いた投書で、犯人を名乗る人物が自分のことをこう書き記したのが始まりである。 もっとも、このような手紙が送られるのは珍しい事ではなかったのだが、この手紙が送られてから3日後の27日に、第3,4の事件が起こったため、この手紙はヤードに送られ、それを嗅ぎつけた新聞社によって手紙の全文が新聞に載ることとなった。 このような手紙はこの後も送り付けられたが、筆跡が明らかに違っていた。最も、この第一の手紙すら、犯人本人のものかどうかもわからない。 ○当時の犯罪に対する一般市民の興味 殺人事件や犯罪事件に対する民衆の興味は、ヴィクトリア朝の初期の頃から熱狂的なものだった。街では犯罪を取り上げた挿絵つきの瓦版やタブロイド、パンフレットが売られていた。鉄道が発達してくるとイギリス各地へその新聞が運ばれた。 どこかで裁判や公開処刑が行われるというと人々はひと目犯人を見ようと押しかけた(例:1827年の「赤い納屋事件」では、およそ20万人の人々が集まった)。またある時は忌まわしい殺人事件の起こった場所をひと目見ようと詰めかけた。被害者の似顔絵を売るものもいた。 新聞記者は刑事よろしく走り回って情報を集めては尾びれ、背びれを付け加えて扇情的な文句を添えて記事を書いた。事件によっては150万部〜200万部以上の新分類が売れた。上流階級のやんごとなき人々は使用人にこっそり新聞を買ってくるように命じた。 子供たちもそんな新聞を読み、それを題材にした歌を口ずさみ、汽車に乗る人々は犯罪を題材にした小説を好んで読んでいた。 しかし、切り裂きジャック事件においては、新聞に載った似顔絵のおかげで被害者の身元が判明した件(第1、4)もあった。 ※要するに、今も昔も民衆はゴシップ記事が好きだったという事です。 ○第1の事件(1888年8月31日) 第一の事件は、イースト・エンドにある地下鉄ホワイトチャペル駅の裏側にあるバックス・ロウという小路で、チャールズ・クロスという荷馬車の御者が早朝出勤の途中、被害者メアリー・アン・ニコルズを発見した。 この辺りは30分に1回は巡査がパトロールをしていた。ジョン・ニール巡査が午前3時15分に巡回していた時は死体は無かった。クロスが発見したのが3時40分。およそ25分の間に起こった殺人であった。 周囲の住人は悲鳴を聞いていない。のどにあった2箇所の切り傷の内、深い傷あとがあり、血管、声帯、食堂を切り裂き、頚椎に達していた為、声を立てる余裕がなかった。腹部や腰周りにもつき傷、切り傷があった。彼女は経産婦だった。 ルウェリン医師は、「凶器は長く幅の広いナイフで、決してむやみに切り裂いたのでもない。犯人はかなり解剖学的知識のある者だ。さもなければこれだけの傷を短時間に負わせられるものではない」と証言している。 また、別の医師は、「今までかなりの死体を扱ってますが、これほどひどいのは初めてですね」と述べている。 この事件の担当者は、後に警視まで上り詰め、アメリカのピンカートン探偵社のヨーロッパ支部の支局長もつとめたフレデリック・ジョージ・アバーライン主任警部。63年に入庁、73年に警部に昇進し、14年間H管区で犯罪捜査を担当していた。 ※このアバーライン警部は映画『フロム・ヘル』でジョニー・デップが演じた警部です。もちろん、超能力があるとかあの性格は映画独特のものですよ。 ○第2の事件(1888年9月8日) 発見者であるジョン・ディビスは、リーデンホール市場で荷馬車の御者で、仕事場への近道を通る途中に被害者、アニ―・チャップマンを発見した。 警察と医者が現場に駆けつけたとき、被害者ののどは皮一枚でつながっていた。 死因はのどの切り傷。被害者は後ろから音が出ないように口をふさがれ、激しく抵抗した後があった。初めにのどを切り裂かれ、絶命した後に腸が引き出され、それを右肩にかけられていた。また、子宮とぼうこうが切り取られていた。 凶器は15−20センチの細長い薄い刃のナイフと推定され、第1の事件同様、医師が舌を巻くほどの短時間の熟達した凶行である。 この事件では目撃者が現れ、話し声を聞いたりした者がいたが、その証言には矛盾が見られた。 ちなみに、この事件の頃はロバート・アンダースン法廷弁護士が犯罪捜査部長であった。が、彼は休暇中でスイスにいて、休暇が終わるまで帰ってこなかった(帰ってきたのは10月1日)。そのため、初動調査に支障をきたした。 ○第3,4の事件(1888年9月29日) この2つの事件は時同じくして行われた。 9月29日、深夜1時頃。水晶宮で夜店の露店を出していたルイス・ディームシュッツは荷馬車で帰る途中だった。馬車が何か柔らかいものを踏んだので調べてみたら、3人目の被害者であるエリザベス・ストライドを発見した。 彼女は殺されて間もなく、体はまだ温かかった。その首は深く切り裂かれ、ぐらぐらだった。検死の結果、死因は立っているところを、鋭利な刃物で頚動脈とのど笛を掻き切られたと判明。服の上部が開かれていた事から、犯人はこれまで同様、腹部を切開する途中だったものと思われる。 この日、第3の事件発生場所から15分ほどの所にあるシティ内のマイタ−広場で、パトロール中のエドワード・ワトキンズ巡査が第4の被害者、キャサリン・エドウズを発見した。発見したのは1時45分ごろ。15分前にここを通った時には死体は無かったというので、短時間での犯行である。 エリザベス・ストライドの犯行が中断されたせいか、この第4の事件はひどいものであった。エドウズは鼻から右ほほにかけて深くえぐられ、左目をつぶされ、右耳の一部が切り取られ、のどを7インチ切り裂かれていた。腹部は、みぞおちから股にかけて縦横に切り裂かれ、内臓は露出していた。肝臓はとがった刃先で突かれており、左の腎臓と子宮の一部が切り取られていた。腸は引き出され、右肩にかけられていた。 この事件はシティ内で起こったため、ヤードとシティ警察は別々で捜査を行ったが、不和が生じ、双方の捜査陣には確執と混乱が起こった。 ※当時のロンドンにはシティと呼ばれる特別地区があり、シティ警察が担当していた。 まあ、いわゆるひとつのナワバリ争いってヤツです。 ○第5の事件(1888年11月9日) 11月9日、この日は年に一度のシティ市長の就任式があった日で、パレードが行われていた。丁度その午前10時40分頃、青果卸売り市のならびにあるドーセット通りという狭い路地で、家賃をはらってない借間人、メアリ・ジェーン・ケリーの元へ取り立てに行ったトマス・ボウヤーは、扉の鍵が閉まっていたので窓辺へ行き、窓の穴から鍵を開け、部屋の中を見てみると、血まみれのメアリの遺体を発見したのである。 11時30分頃にはアバーライン警部とフィリップス警察医が到着したが、警察犬が来るまで現場に入ってはいけないと、当時既に退職していたウォーレン警視総監の既に無効になっていた命令を守っていた為、捜査開始まで3時間の遅れを取り、初動捜査が遅れた。 検死と解剖の結果、メアリは9日の午前3時から4時にかけて殺されていた。凶器は先のとがった幅1インチ(約2・5センチ)、長さ6インチ(約15センチ)のナイフ、良く切れる食肉処理用ナイフか外科医のメスと考えられた。 遺体の顔は面貌がわからないほど切り刻まれており、右耳から左耳にかけて深く切り裂かれており、首は皮一枚でつながっていた。両乳房は切り取られ、腕も切り裂かれていた。腹部は大きく切開され、内臓が取り出されている。子宮と腎臓、片方の乳房は頭の下に置かれ、もう片方の乳房は右足の側にあった。肝臓は足の間に、腸は体の右脇、脾臓は左脇に転がっていた。腹部や太ももの肉塊はサイドテーブルに載っていた。血はベッドからあふれ、床の2フィート四方が血の海だった。 これほどの解剖はまったくの素人でも難しいと言われた。 パレードの最中にこの事件のことが流れた。人々はこぞって新聞を買おうと押しかけ、行列の最中の道路へ流れ出た。市民たちを抑える為に警察は警防を振るう。これを機に普段から警察や政府に不満をもっている学生や労働者は一斉に警官に襲い掛かり、各所で乱闘が起こった。このため、就任式の式次第は大幅に遅れた。これは700年続いた伝統行事の仲でも前代未聞の出来事だった。 ○事件中のロンドン 各新聞はジャックの事件をこぞって取り上げたが、中にはひどい内容のものも多くあった。特にイラスト夕刊紙はひどく、事件を誇張し、あること無い事を連日書きたて、部数を上げていた。読者は連日新聞を読み漁り、殺人現場や遺体のイラストを見て、その追体験をして満足していたのである。 人々は切り裂きジャックの名前に敏感になった。通りでちょっと大きな声で彼の名前が挙がると、人々は騒ぎたて、警官が飛んできた。イースト・エンドを中心に、ロンドン全体が切り裂きジャック症候群というべき恐怖症に取りつかれていた。日中から武器を携帯する人が増え、夜は繁華街でも人通りが絶えた。 パトロールは強化されたが、それでも警察は信用できないと市民は自警団を結成した。やがていっこうに犯人を逮捕できない警察に批判が殺到した。当時の警視総監、チャールズ・ウォーレンを罷免要求のための弾劾集会が開かれ、新聞も警察や彼を批判する記事やイラストを載せた。ヴィクトリア女王もこの事件には興味があり、緊急対策を命じ、第5の事件の後には警察を非難する親書を首相に送っている。 ○その後の様子 現在、切り裂きジャックの犯行は5件とされているが、それは後の調べでわかったものである。当時のロンドンの人々は次の犯行はいつ、どこで、誰に起こるのかという不安と恐怖はロンドン中に広まっていた。 売春婦が殺されるとそれは切り裂きジャック事件と結び付けられた。1888年の12月や翌年の5,7月、1891年にもにも売春婦がのどを掻き切られる事件が起こった。 ヤードは結局犯人を絞り込めず、1892年にはファイルが閉じられた。その100年後に資料が解禁となった。 ちなみに、シャーロック・ホームズの著者、アーサー・コナン・ドイルは医者が犯人ではないか、とコメントを残している。 事件は事項を向かえ、警察の後は切り裂きジャック研究家(リッパロロジスト)たちが様々な研究、犯人説を挙げ、それは現在まで続いている。 |