海に浮かぶサプライズ号。見目麗しい彼女を囲むのは海、海、海。どこをどう見回しても海、のみ。 だがそれは、クルーにとって今となっては至極当たり前の光景であった。 既に陽は沈み、辺りには濃紺のヴェールが落ちている。半月が空に昇り、さらさらと淡い柔らかな光を落としていた。星々もいつものようにチラチラと瞬いている。 夕食から就寝までの間は、何かしらの当番に当たっている者を除いては自由時間になっており、皆それぞれの時間を過ごしていた。 その頃、サプライズ号の副艦長、トーマス・プリングスは自室で書物に目を通していた。 「・・・!」 やがて、開いた窓からヴァイオリンとチェロの合奏 ― 合奏というよりも共演の様な、楽器を介した二人のおしゃべりのような― が聞こえてくる。 それを聞くやいなや、プリングスは本を閉じ、急いで上着を羽織ると甲板へ駆けていった。 ひゅう と海風が彼を歓迎する。月と星の明かりがあるおかげで、うっすらと辺りの様子がランプ無しでも確認できた。彼は船尾にあるミズン・マストにするすると登っていく。・・・初めて船に乗った時に比べれば遥かに上手に登ることが出来るようになったのだ。 そうしてマストの最上部に設置してある檣楼(しょうとう)の中に体を滑らせ、仰向けになった。そのままじっとしていると、先ほどの音楽が風に乗ってここまで流れてくる。 「・・・・・」 プリングスはしばらくその音色に耳を傾け、夜空を眺めていた。いつも見慣れているはずの夜空も、星も、月さえも、気分次第でこんなにも印象が変わるのだと、いつも思う。 プリングスがジャック・オーブリーの元に就いて船に乗るようになってから、彼は幾度となくオーブリーとマチュリンのこの就寝前の演奏を聴いてきた。 ・・・初めて聞いたときより、さほど変わらないような気がするのは、どうしてだろう・・・・ まだ士官候補生だった頃は眠れない夜も多かったのだが、そんな時この陽気な、時に美しい、時に物悲しい(たまに騒々しい)音色を聞くと何故か心が落ち着き、安らぎ、疲れきった体を心地良い眠りへと導いてくれたのであった。 今夜は、特に不安という訳ではない。波の砕ける音が、船を打つ海の風が、静か過ぎる夜の静寂(しじま)が空恐ろしかったのは、もう昔のことだから。 それでもこの音を聴くのは今でも彼の楽しみだった。 静かな夜と穏やかな波音と、そっと頬をなでる風と、そして耳ごごちの良い、この音色。 「・・・これは、何て曲だろう・・前に聞いたことがあるんだけどなぁ、何て言ったかなぁ・・・」 いつだったか曲名を聞いたことがあったのだが、何しろ音楽には少々疎いもので、やたら長い綴りと数字が羅列していた、ということしか覚えていない。かろうじてバッハとかモーツァルトの名前を聞いたのは覚えているけれど。 何かと辛く厳しい航海で、明日をも知れぬこの身だけれど。 あの人と、この船と・・・皆がいれば、不思議と何とかなりそうな気持ちにさせてくれる。 ・・・この音も、そう。いつも、いつも、今も。 そうして目を閉じると、プリングスは就寝までの僅かな時間を、束の間の安らぎを、音と風と僅かな明かりと夜の闇に包まれて、過ごすのであった。 END |