その日の夜、ワトスンは夕食を済ませた後、外出の準備をしていた。 一方、ホームズは自室に籠もって論文の執筆準備に勤しんでいた。タイトルは既に決まっており、『刺青について』というものらしい。 これまで集めた資料を眺めつつ論文の構成を考えていると、外へ続くドアが開閉する音が背後から聞こえてきたが 特に気に留める事もなく論文にとりかかった。 稀代の名探偵がその異変に気がついたのは翌朝になってからだった。 朝食を一緒に食べようと思いワトスンの部屋を訪れたが、部屋はもぬけの空だったのだ。 飲んだくれて一夜を過ごしたのか、はたまた賭けに負けて不貞腐れているのか、所詮そんな所だろうと考え、ホームズは一人で朝食をとる事にした。 だが、ワトスンはさらに翌朝になっても戻って来なかったのである。 こうなっては論文どころではない、緊急事態である。すぐに頭を切り替えると、ホームズは昨日と今日の新聞を取り出して目を通し始めた。 「特にめぼしい事件は起こってなさそうだが…」 初めはビリヤードか賭け拳闘に行ったのかと思っていたが、二日も戻って来ないとなると原因は別にあると踏み、 何か事件に巻き込まれたのかと考え新聞をくまなく探したが、それらしい事件は起こっていなかった。 「そうなると…」 ホームズの次なる思考は少々やっかいな結論を導き出した。まだ新聞沙汰になっていない事件に巻き込まれた、という可能性である。 「ああ見えて熱くなり易い所もあるし、悪事を放っておけない正義感もある。何か厄介事に首を突っ込んでいるとしたら…面倒だな」 とにかく最悪の結果にだけはさせまいと書きかけの論文を放置し、いそいそと外套を羽織ってホームズは急ぎ足で部屋を出て行った。 やがて夜になると、ベーカー街221Bの階段を上る足音が聞こえてくる。その主は扉を開けると真っ暗な部屋に戸惑い、手探りで灯りをともすと、 主無き部屋がその人を出迎えた。 「何だ。ホームズはいないのか」 部屋に入ってきたのは、主の一人、ワトスンだった。 ワトスンは小さく溜息をつくと、外套を椅子に置き、長椅子にどかっと腰掛けて大きく深呼吸をする。 その端整な顔は疲労に満ちていた。無精髭が顎を覆い、目の下には不健康そうなくまができている。 出かける時にはきちんと整えられていた髪は乱れ、衣服には皺が寄っていた。 熱い紅茶が飲みたいなと思っていたその矢先に、ノックの音が聞こえてくる。「どうぞ」と声をかけると、家主のハドスン夫人が入ってきた。 「ハドスンさん、丁度良かった。熱い紅茶と、何か食べるものを用意してもらえませんか?」 「それは構いませんけども、ワトスン先生、今までどちらにいらしたんですか」 「いやぁ、ちょっと面倒な事になってまして…」 「ホームズさんもいらっしゃらないし、ヤードの方から電報を預かっていますよ」 電報に目を通すと、それまで生気の無かったワトスンの顔に感情が蘇ってくる。 電報を読み終えると、皺のできた眉間を手で押さえて大きく長い溜息をついた。 「どうかなさったんですか?」 その様子を心配そうに見ていたハドスン夫人が思わず声をかける。 「ああ、その。後でまとめて説明しますから、さっき言った紅茶と食事を…二人分、お願いできますか?一時間後位には戻るので」 「はぁ、わかりました」 部屋を出て頼まれた食事の準備にかかったハドスン夫人は、どたどたと慌てて階段を駆け下りる音を耳にし、 何かと問題の絶えない下宿人達の事を思い浮かべると小さく溜息をついた。 スコットランドヤードの近くに位置する屋外拘置所には、今日も今日とて様々な人がたむろしている。 夜も更けて人々はがやがやと話に興じつつも、時折吹きすさぶ夜風に身を震わせていた。 出入口で立番をしていたのは捜査官のクラーキーだった。電報の送り主でもある彼は見知った顔がやって来るのを目に留めて腕を上げる。 「ワトスン先生、お待ちしていました」 いささか生気の無い、険しい顔つきの医者に驚きつつも挨拶を交わす。 「それで、クラーキー。ホームズは?」 「ホームズさんは、」 「ここにいるよ」 ひょいと鉄柵の間からホームズが姿を表した。 「ホームズ!!」 「やぁ、ワトスン、2日ぶりだな。会いたかったよ、my dear friend 」 飄々とした態度で笑みを浮かべる親友を目にし、ワトスンの眉間に新たな皺が刻まれる。 「『やぁ』じゃないだろう!一体これはどういう事だ!?」 「どういう事も何も。私は無実だよ、わかるだろ?」 「まったくサッパリわからないな。少し家を空けていただけなのに、どうしてこんな事になってる?説明しろ!」 「はは。怒った顔も魅力的だね、ワトスン。その顔をもう少し拝んでいたいが、君も疲れてるだろうから簡単に説明させてもらおうかな。 クラーキー、君も興味があるだろう?」 「ええ。あなたの依頼の内容とワトスン先生と、何か関係があるのですか?」 先ほどから興味深げに様子を伺っていたクラーキーが返事をする。 「事の発端はだな、ワトスン。君が何の連絡も寄越さず二日も家を空けていた事だ。まぁ、それも不慮の出来事だった様だから その点に関しては責めはしない」 「優しくて涙が出そうだ」 「その時はいつでも言ってくれ、胸を貸してやる。話を戻すぞ、そこで私は君がどこで何をしてるのか、 何か事件にでも巻き込まれてやしないかと思って調査する事にしたんだ。初めはビリヤードか賭け拳闘に 行ったと思ってその付近で何か事件がおきてないかと新聞を調べたが、生憎該当する様な事件はなかった…」 その後、新聞沙汰になっていない事件が無いか、ヤードのレストレード警部を尋ね行ったホームズは、ここでも収穫を 得る事なできなかった。そこで、昨日一昨日と周辺をパトロールしていた巡査に何か異常はなかったかどうか聞いて、 結果があったらベーカーストリートまで一報しろと警部を丸め込み、自らは現場へ赴いて情報収集にあたったとの事だった。 所が、聞き込みの最中に以前拳闘の試合でホームズのせいで大損したというチンピラ数人と遭遇してしまい、 結果的に殴り合いの野外乱闘になった所を警ら中の警官に捕まったという次第であった。 「そういう事情だったんですか。でも、昨日も一昨日もその周辺で事件はなかったと聞いています」 レストレードから指令を受けて、巡査たちに聞き込みを行ったクラーキーが口を挟む。 「ああ、そうだ。ワトスンはケンカや事件に巻き込まれた訳ではなかったからな」 「そうなんですか?先生」 「あ、ああ」 「君は拳闘じゃなく、ビリヤードに行ったんだ。君が球突き遊びをするのはサーストンと相手が決まっている。なら彼に 話を聞きにストランドへ行こうと思い至った所で暴徒に遭遇してこのザマさ。でも、ここにたまたまストランド周辺 に住んでる人がいてね、何でもあの辺りで悪質な風邪が流行ってると聞いて全てに合点がいったんだよ。 恐らく、サーストンもその被害者で、君は看病にでも出向いていたんだろ」 だから、そんな疲れきった顔をしているんだ。一瞬だけホームズの表情が曇る。 「…あの夜、約束していたにも関わらずサーストンはクラブに来なかったんだ。そういう事をする男ではないから、 何かあったと思って自宅を訪ねたら、彼だけじゃなく、夫人や子供たちも風邪で寝込んでいた。 特に子供達は肺炎の一歩手前だったよ。あの辺一帯がそんな感じで、周囲の医者も診察と往診に借り出されて彼の家 まで順番が回って来なかったんだ」 そんな友人と近所の人達を放っておく事ができずに、二日間かけて看病と世話をしていたという訳である。 「君のお人好しは美徳でもあるが、たまに呆れるね。自分の顔を鏡で見てみるといい、まるで病人だ」 その一言でワトスンの顔が怒りで歪む。普段は忍耐強い彼の心だが、疲労困憊の所へ炸裂したこの嫌味は十分過ぎるダメージだった。 「何だと?私がどこで何をしようと私の勝手だろう!疲れ果てた所に、君を引き取りに来いと言うから来てやった のに何て言い方だ!一晩そこで反省してろ!!」 そう怒鳴りつけると足音荒く去っていく。 理不尽だ。 医者として、友人として然るべき事を行ったというのに、何故非難などされなければいけないのか。 友人なら、ねぎらいの言葉のひとつくらい、かけてくれたっていいではないか。 憤慨しながら馬車を拾おうと通りに出た所に、クラーキーが駆けつける。 「ワトスン先生、待って下さい」 「すまないが、さっき話した通り私はくたくたなんだ。アレはもう一日くらいそっちで引き取っていてくれないか?」 名前を呼ぶのも嫌らしい。 「…ホームズさんは、貴方を大層心配していたんですよ」 「そうは見えないが」 「ワトスンさんは人が好いから、危険な事に巻き込まれて無いか心配だと言ってました。それと、ホームズさんの友人だからこそ、 悪党に狙われやしないかとも言ってました」 名探偵の親友という立場だからこそ、ホームズの弱みに成りうる。その可能性も危惧していたのである。 「…」 「今夜は冷えます。どうか、一緒に帰って頂けませんか?」 クラーキーの懇願にワトスンは目を伏せながらしばし考えを巡らせる。 「…君に免じて、今日は彼を引き取って帰るよ」 「ありがとうございます」 そうして、ホームズは忌まわしい拘置所から解放された。 「やはり私が放っておけないか」 「勘違いするな。今回はクラーキーとハドスン夫人に免じて引き取ったんだからな」 「? そこにどうして我らが家主夫人が出てくるんだ?」 「ハドスン夫人に、食事を二人分用意する様に頼んでいたんだ。一人で帰ったら、せっかくの食事が勿体無いだろう」 「…そうか。」 このお人好しな友人は、疲れ果てていながらも、自分の心配もしてくれていたというのだ。 ちょっとした気遣いなのに、それが何故だかとても身に沁みる。 夜風は冷たいのに、胸の内にほんのりと温もりが灯った様な気分になった。 「ワトスン」 「…何だ?」 「心配してたのは、本当だ」 「知っている」 「さっきは少し言い過ぎた。すまない」 偏屈な友人の真摯な顔と謝罪の言葉にワトスンは驚いて目を丸くする。 「君が謝るなんて…明日は雨だな」 「その憎まれ口も愛しいね、ワトスン」 「…私の為にも、その口をしばらくの間閉じていてくれないか」 「そいつはごめん被るよ。せっかく二日ぶりに話相手が帰ってきたんだ、もう少し会話を楽しもうじゃないか。 何なら、君への愛を韻に乗せて諳んじようか?」 「ふ、ふざけるな!」 そう言って掴みかかった手はひらりとかわされる。ホームズはにやにやと、嬉しそうに笑いながらワトスンに語りかけた。 「何だ、結構元気じゃないか。馬車を拾って帰ろうと思ったが、愛を囁きながら夜の散歩でも楽しもうか?」 「馬鹿な事を言うな!」 「おや、私を心配する余り、手袋もストールも忘れたみたいだな。こんなに手が冷えてるじゃないか。ほら、もっと身を寄せれば暖かくなるぜ」 「ホームズ!!」 そうして二人はいつもの様に歩いていく。ガス灯と月がそんな友人達の帰り路を照らしていた。 おわり |
あとがき ビリヤードやサーストンについては聖典の『踊る人形』の記述を元にしていますが、サーストンの居住地がストランドというのは捏造です。 クラーキーに説得されなくても、少しすれば思い直して、ハドスン夫人へのお願いを理由に引き取るつもりだったんですよ。 何か、ラスト辺りは放っておいたらいつまでも延々と会話を続けていて、どこでどうやって切ろうか迷いました。 リッチー版ホームズはちょっと手のかかる子供(+独占欲が強い)みたいなイメージがあります。 で、ワトスンはそんなホームズに手を焼いて鉄拳制裁上等なパワフルオカン。でも、可愛いから放っておけない。みたいな。 当初はもうちょっとケンカっぽい感じにしようかと思ったのですが、聖典版と比べると糖度が足りない気がして、少し足してみました。 |