その日、彼にとって実に珍しい事が起こっていた。 自他共に認める【名探偵】、シャーロック・ホームズが体調不良で寝込んでいたのである。 ホームズはたまに不精な生活を送る事もあるが、基本的に身体能力は高いし、鍛錬もそれなりに行っている。 十分な食事も摂っているし、衛生的な環境で暮らしており、さらに、世話焼きな親友兼ドクターが側にいる。 だが、彼とて人間である。捜査の為なら多少の無理はするし、幾分不衛生な環境に身を置く事もある。 そんな理由で、ある調査の為に下町に数週間潜入捜査を行っていたのだが、悪天候と悪環境に居たホームズは 事件を解決に導いたすぐ後に倒れこんでしまった次第であった。 「…君が事件にのめり込む性質なのはわかってるが、何事にも限度というものがあるだろう」 いつもより不機嫌な面持ちとトーンでドクターが薬を差し出した。 「私が一度捜査に取りかかるとどうなるか、君は十分見てきただろ?ドクター。今回だっていつも通りやってのけただけだ」 普段から白めの顔を青白くさせながら横たわっているホームズがいつもの調子で応える。 「その結果がこれか」 「事件は解決。依頼人は気前良く報酬を払い、私は満足している。体調だって直に良くなるだろう」 含んだ薬の苦さに顔をしかめながら、水で流し込む。僅かに軋む頭と体にまとわりつく気だるさが鬱陶しくて、 薬を飲み終えるとばたりとベッドに身を沈めた。 「ともかく。少し安静にしているんだな」 人の忠告など滅多に聞かない性分だと知っているワトスンは、小さく息を吐くと水に浸けたタオルを絞り、 ホームズの額に乗せる。 「…それじゃあ、また様子を見に来るよ」 「何だ。ずっと付きっきりで看病してくれるんじゃないのか?」 「そんな軽口が叩けるなら看病なんていらないだろう。じゃあな」 そう言って自室に戻ったワトスンは、抱えている患者のカルテのチェックや器具の点検を始めた。 仮にも病人に対して少し言い過ぎたかとも考えたが、相手はホームズである。少しでも甘やかすと ここぞとばかりに調子に乗ってくるのが目に見えていた。 容態も安定してるし、すぐに良くなるだろうと思い、ワトスンは自分の仕事に専念する事にした。 そうして2時間程デスクに向かって黙々と仕事をしていると、ドアの向こうからホームズの声が聞こえてきた。 「ワトスン、ちょっと来てくれないか?」 まだ寝ていなかったのか、と呆れつつも、万が一の事を考えて渋々と立ち上がる。 「寝てろと言ったのに」 開口一番文句を言いつつ、ベッドの脇にある椅子に腰掛けてホームズの様子を見る。 「…」 タオルを乗せていたのに額は常温よりも火照っている。ずっと寝ていたはずなのに脈の動きも速い。 飄々といつもの調子を崩さないホームズの様子に安心していたが、事態は思っていたよりも悪かったらしい。 これは明らかに自分の失態である。 ワトスンは眉根を寄せ、ぎゅっと目を閉じると自分を咎めた。 「そんなに気に病むな。らしくない」 心無しかいつもより声に覇気が無い。 「でも、さっきより悪化している」 「あんな悪環境に居たんだ。仕方ないだろう」 「だが、」 「君の仕事はだな、ドクター。早い事私を回復させるんだ。現状を嘆いた所で何の解決にもならないだろう」 尤もな意見に閉口するワトスン。ホームズなりの気遣いだとはわかっていたが、それが逆に後悔をもたらす。 「…せめて、医者として謝らせてくれ。それ位はいいだろう」 「わかった。君の謝罪を受け入れようじゃないか。所で、患者としてひとつ頼みがあるんだが」 「何だ?何でもしよう」 「もう一度タオルを冷やして当ててくれないか?さっきから頭が熱くてかなわん」 「お易い御用だ」 そう言うとワトスンは急いで階下へ行くとハドスン夫人から氷をもらって氷水を用意した。 念入りに浸けたタオルを絞ると、そっとホームズの額へ乗せる。 「ふむ。随分楽になるな」 気持ち良さそうに目を閉じるホームズ。ワトスンはその様子を確認するとホッと胸を撫で下ろし、次にやる事を探そうと 視線を彷徨わせた。 「ワトスン」 不意に名前を呼ばれると、グイっと手首を捕まれた。床に臥す親友がいざなったのは彼の頬だった。 「え、」 「何も言わず、少しこうして欲しいというのは、我侭な要求か?」 黒い瞳が呼びかける。 言葉に詰まってただその瞳を受け止めている内に、氷水に浸かって冷えていた手は、火照った頬からどんどん熱を吸収していく。 「返事が無いという事は、異議が無いという事だな、結構」 「…随分子供っぽい真似をするじゃないか」 ワトスンは苦笑を浮かべると、幾分痩せた友人の頬を指ですっと撫でる。 「早く治す為さ」 「それとこれと何の関係があるんだ?」 「君の手は、冷たくて熱を吸収するという利点だけなく、付加効力があるんだよ」 そう言ってワトスンの手を取ると、今度は甲の方をあてがった。 「何だ、それは」 ホームズはその質問には答えず、目を閉じてその手の感触と温度を楽しんでいた。 ワトスンはそんなホームズの気持ち良さそうな顔を見ている内に、たまにはいいか、と返答を求めるのを止め、 しばらくホームズのされるがままに付き合っていた。 次にホームズが気が付くと、夕日の残り日が窓から僅かに射し込んでいる頃だった。 横を見ると、付き添っていたワトスンも椅子に座ったまま目を閉じてうな垂れている。どうやら二人揃って眠っていたらしい。 ホームズは上体を起こすと、穏やかな顔で眠っているワトスンを見る。 「…口さえ閉じていれば、こんなにも可愛げが増すとはな。ふむ……口か」 僅かに寝息をたてる薄い唇を見ていると、普段押し殺している感情がここぞとばかりに騒ぎ出すのを感じた。 止めておけ、100%面倒くさい事になる、と理性が囁いたが、我慢ができなかった。 ホームズはワトスンの肩を掴むと、ぐいっと顔を寄せてワトスンの唇を塞ぎ、そのまま深く吸い付く。 異変を感じたワトスンは瞬時に目を覚まし、自分に起こっている事を理解すると、自分の肩を掴んでいる 腕を掴んで押し返した。だが、ホームズはワトスンの腕を放す事なく、共々ベッドへと転がった。 「ホームズ!!人が寝ている隙に何をするんだ!!」 「何だ、敢えて言葉にして聞きたいと言うのか?まったく、君は真面目ぶってるクセに案外…」 「うるさいっ!!まさか、今日の事は全て仮病だったのか?」 「誓って言うが本当に具合は悪かった。だが、君の献身的な看病のおかげで回復が早まっただけさ」 「タオルを頭に乗せただけだ!!ああ、こんな事なら部屋に引っ込んでいれば良かった!!」 「そんな事を言った所で、珍しく弱った私を放って置ける程薄情な人間じゃない事は承知だぜ」 「え…」 不意に表情を緩めたホームズを見て、思わず動きが止まる。 「…それで褒めてるつもりか?結局私の厚意を利用してただけじゃないか!?」 「何だ、バレたか。君も頭の回転が早くなったな」 「ホームズ!!」 その後、二人はしばらくベッドの上で押し問答をしていたが、大声と騒音に痺れを切らした 家主が登場し、『立派な紳士が何事ですか!!』と二人揃って叱られたのでありました。 おわり |
あとがき お待たせしました。88888ヒット記念リクで、ホムワトです。 ベタだとは思いましたが、看病ネタを使ってみました。 いちゃいちゃだけではアレなので、一歩進んでキスさせてみました。いかがでしたでしょうか? ワトスン大好きなホムにとって、あの手には冷たい以上の効果、付加効力があるので、スピード回復したという事で。 (10-06-12) |