花に乗せて


 2,3日の間雨に見舞われていたロンドンだが、久しぶりに太陽が顔を出していたその日。
 ベーカー街221Bに居を構えるシャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンは、買い物の為に通りを歩いていた。
 悪天候とそれによる軽い風邪のせいで体調を崩していたハドスン夫人を気遣って、心優しいドクターが手伝いを 申し出たのである。探偵の方は買い物なんてメイドに行かせればいいだろうとボヤいていたが、散歩がてら 賑わう街を観察するのも悪くないだろうと親友に言いくるめられ、少々腑に落ちないまま出てきた次第であった。

 雨の間不精していた人は少なくなく、通りは多くの人で賑わっていた。まだ微かに濡れる石畳に気をつけながら、 久しぶりの太陽を背に受けて2人は人ごみを掻き分けながら進んでいく。
「…ワトスン。仕事でも無いのにどうしてこんな苦労をしながら歩かなきゃいけないんだ」
「いいじゃないか。久しぶりに晴れたんだし」
「それじゃあ質問の答えになってない」
「どっちみち、散歩に出たかったんだ」
「散歩するならどこかの公園にして欲しかったね」
 青い空とは裏腹な親友の呟きを無視しながら、ワトスンが食料品店に入って行くと、『仕方が無い』という面持ちでホームズがその後に続いた。


 小一時間もした頃、2人は買い物を終えて帰宅の路についていた。通りは相変わらず人が溢れており、 食料が詰まった紙袋をそれぞれ1つずつ抱えながら歩いていると、2人の間に とすん と子供がぶつかった。

「おっと、すまない。おい、ホームズ。どうして避けない?」
「…私のせいか?」
 どこか大人気無い大人2人を見上げるのは、蜂蜜色の髪とブラウンの眼をした、年はまだ10に満たないであろう少女だった。 少女は珍しそうに2人を見たまま、その場を動こうとしない。それに気付いたワトスンが通りの端に場所を移し、 かがみながら少女に優しい声で話しかけた。

「こんにちわ」
「…こんにちわ」
「どこかへ行く途中だったのかい?」
 その問いにぶんぶんと頭を横に振る少女。
「じゃあ、誰かと一緒?お母さんかお父さんは?」
「ママといっしょ」
「迷子だな」
 すぐに結論を口走ったホームズに、やや非難めいた視線を向けるワトスン。
「…ママ、どこ?」
 『迷子』という言葉を理解しているのであろう。少し掠れた声で少女が呟いた。
 子供を何度も診た事のあるワトスンは、これが泣く前兆である事にすぐに気が付くと一瞬だけ眉を潜める。
「やれやれ。買い物の帰りに迷子を拾ってしまうとはね」
「ホームズ!!」
 ワトスンが怒鳴ると同時に少女から小さな嗚咽が、大きな瞳からは雫がぽろぽろと流れ出す。
「ああ、泣かないで、お嬢ちゃん」
 紙袋をホームズに押し付けると、ワトスンはポケットからハンカチを取り出して少女の涙を拭った。 それでも次から次へと涙は溢れてくる。よっぽど心細いのだろう。
「私達が君のママを探してあげるから、泣き止んでもらえないかな?」
「…ホント?」
 か細い声で尋ね返した少女がようやくしゃくりあげるのを止めた。
「ああ、本当だ。一緒にママを捜しに行こう」
 とびきり優しい声と笑顔で語りかけると、少女もつられて口の端を持ち上げた。
「ああ、ようやく笑ってくれた。私はジョン。ジョン・ワトスン、こっちのがホームズ。君の名前は?」
「ソニア。ソニア・ルーディン」
「素敵な名前だね」
「…ありがとう」
 嬉しそうに笑ったソニアの瞳をもう一度拭うと、ワトスンは少女を担ぎ上げて肩に乗せた。 こうして通りを歩いていれば母親に気付いてもらえると考えたのだ。
「いいかい、ソニア。これからこの辺りを探してみるから、君もお母さんがいないかどうか見ててくれるかい?」
 こくんと頷くソニア。そうして歩き出そうとしたワトスンをホームズが呼び止めた。

「…どうした?ホームズ。まさか君は先に家に帰ってるなんて言うつもりじゃないだろうな?」
「そうしたいのは山々だがね。その可哀想なレディを君だけに預けておくのが心配なんだよ」
「? どういう事だ?」
 怪訝そうな顔をするワトスンに、にやりと不適な笑みを浮かべるホームズ。紙袋を両腕に抱えながら、 ワトスンの肩にちょこんと座るソニアに歩み寄った。
「ミス・ルーディン。君の母親を探しに出る前に、少し質問させてもらって構わないかな?」
 その問いかけに、僅かに警戒する様な表情を浮かべるソニアを見て、ホームズは思わず苦笑する。
「私はね、探偵なんだ。君から話を聞けたのなら、君の母親を探すのに随分役立つと思うんだがな」
「ソニア、彼の質問に答えてくれないか?」
 ワトスンに促されてソニアはこくんと頷いた。

「よろしい。まず、1つ。君と君の母親は何をする為に外出したのかな?」
「晩ごはんのお買い物よ」
「この辺りに買い物に来たんだね。どっちの方角から来たかわかるかい?」
「うーん…あっち」
「ジョージ・ストリートの方か。そして、差し付けなければ、君の母親は今夜何を作ると言っていたかな?」
「シチューって言ってたわ」
「なるほど。わかった」
「えっ!?」
「ワトスン、バザールの方だ。行くぞ」
 そう言うとスタスタと歩き出すと、慌ててワトスンが後を追った。

「…毎度の事だが、どうしてわかった?」
「いつもの手段だよ、ワトスン。観察だ」
「よければ、どういう観察からその結果になったのかお聞かせ願いたいのだが」
「何、初歩だよ。まず、ソニアの足元には泥や水の跳ね上がった跡がある。その角度や量で彼女がこの辺りまで徒歩で来た事がわかる。 彼女の身なりと、母親と晩ごはんの買い物に徒歩で来たとなれば、彼女の家庭は一般的であり、その一般家庭の母親が 買い物に来るとなれば、あそこが妥当だろう。さらに、母親とはぐれる前にパン屋に寄っている。彼女のスカートに パンの破片がついているからね。そして、ジョージ・ストリート方向から我々と遭遇するまでに該当するパン屋があるから、 そこに寄ったんだろう。匂いも合致するしね。そして、まずパンを買い、次にシチューの具財となる野菜や肉なんかの 生ものを買いに行くとなると、バザールだ。そこだと両方の食材が一挙に手に入る。そしてワトスン、少し急げ。 彼女がパン屋に寄ってから、まだその匂いが残ってるとなると、はぐれてからそう時間は経っていない」
 そう一気にまくし立てるとホームズは歩を早めた。ワトスンは『なるほど』と呟くと慌ててその後を追い、 そのワトスンの肩の上で、ソニアは驚いた様に目を丸くしていた。


 3人が賑わうバザールに着き、出店の並ぶ一角を歩き始めて10分程経った頃。
「ママっ!!」
 ソニアが声を上げる。その声を聞きつけたらしい女性がハっとして辺りをきょろきょろと見回した。 その姿を確認したワトスンが駆け寄ると、向こうもようやく娘の所在に気付き、駆け寄った。
「ソニア!」
「ママー!!」
 2人はしっかりと抱き合う。2人に射していた不安の影がようやく取れた様だとワトスンは思った。
「あの、貴方が娘を見つけてくれたのですか?」
 ひとしきり再会を喜び合うと、母親がワトスンに向かって話しかけてきた。
「ええ。通りを歩いていたら娘さんと遭遇しまして、恐らくここに来れば貴女がいるだろうと…」
 そこまで言って、ホームズの姿が無い事に気がついた。さっきまで側に居たはずなのにどうした事だと眉をひそめる。
「私がうっかり目を放した隙にこんな事になってしまって…ありがとうございました。ほら、お礼を言いなさい」
「ありがとうございます。あれ?探偵のおじさんは?」
 ここでソニアもホームズの姿が無い事に気付く。3人が辺りを見回すと、人ごみの中からひょいとホームズが現れた。
「ホームズ、どこへ行ってた!?ほら、母親が見つかったんだよ」
「探偵のおじさん、ママを見つけてくれて、ありがとう!」
「無事に見つかった様で何よりだ」
 そう言うと、ホームズはすっと手を差し伸べる。その手には黄色い、ベルの様な形の花が一輪握られていた。
「それは…」
 母親はその花を知っているらしく、顔をほころばせる。
「ソニア、この花は君と同じ名前を持っているんだよ」
「ほんと?このお花もソニアって言うの?」
「良い名前を貰った様だね。これはさっき泣かせてしまったお詫びだ。受け取ってくれるかい?」
 そう言うとホームズはにこりと笑う。ソニアはホームズから花を受け取ると、太陽の様な笑みを浮かべた。
「探偵のおじさん、お花、ありがとう!大事にするね」
「…できれば『探偵さん』とでも呼んでくれると嬉しいんだがね」
 そうして4人はひとしきり笑うと、改めてお礼を言う母娘に別れを告げ、バザールを去った。


 2人が221Bに戻り、夕食までの間めいめいの部屋でくつろいでいると、ホームズがふとワトスンの診察部屋にやって来た。 無言でつかつかとデスクに近寄ると、後ろ手から何かを取り出しその上に恭しく置いた。
「ホームズ、これは?」
「…見てわからないか?花だよ」
 デスクに置かれたのは、丸く淡い紫色をした花が咲いている小さな鉢植えだった。
「花なのは見てわかるが、どうしてこれを私に?そしてこれは何の花だ?」
「何でもかんでも私に答えを求めるのはどうかと思うよ。夕食が始まる前に調べてみるんだな」
 そう言ってホームズは自室に引っ込んでしまった。贈り物をもらったのにどこか憮然とした表情のワトスンは、 ホームズの言う事も一理あるなと思いながら、本棚から植物図鑑を取り出すとページをめくり始めた。


「ペチュニアだ」

 やがて夕食の時になり、席に着くやいなやワトスンが切り出す。
「ん?」
「さっき君がくれた花だよ。南米原産の花らしいな。清楚感のある可愛い花じゃないか。ありがとう」
「…後は?」
「後って、どういう事だ?」
「君の調査結果はそれだけか?」
「これ以上何を調べろと言うんだ?そもそも、何であの花を私に?」
 きょとんとした顔でホームズを見つめるワトスン。
「…ソニアの花を買った時に見つけたんだ。君の診察室に置いたら映えるだろうと思ってね」
「そうか、ありがとう。花があるだけで人の心は和むからね」
 納得して食事を始めるワトスンを横目に、ホームズは嬉しい様な残念な様な複雑な面持ちで今夜の 食事であるチキンのソテーを突いていた。

 花はそれぞれ意味や贈る側の感情が込められてており、それが世間で流行っている。俗に言う花言葉というものである。
 花屋でペチュニアを見た時にその花言葉が頭をよぎり、ワトスンに贈ってみようという気になったのだ。

 ほんの、気まぐれだ。

 この無骨な友人が花言葉なんてものを気にするはずが無い。実際、思っていた通りだった。
 それが少し残念でもあるが、どこかでホっとしている自分がいる。
 だが、まあいい。花を贈ったらワトスンは喜んでくれた。それだけで十分ではないか。

 気を取り直してホームズは夕食に取り掛かる。楽しげに今日の思い出を話すワトスンを見ながら、 ホームズはペチュニアの花言葉を心に浮かべた。


 あなたといると 心が和む




                                                             おわり






あとがき
 最初は、『迷子の少女+戸惑う大人2人』のほのぼの話として書き始めたのですが、『少女と同じ名前の花をプレゼントする』 という事をやらせようとした所、花言葉って使えね?と思い直し、結局ワトに花を贈る、というのがメインになって しまいました。少女はオマケ程度になってしまった。そして、ペチュニアはアサガオの様な形の花です。
 そんなワケで萌えがちょっと足らないSSになってしまいました。すみません。
 たまにはこんな奥ゆかしいホームズもいいかな、と。

 ちなみに、ヴィクトリア朝には既に花言葉は存在していたそうです。今よりもっと意味があったり繊細な感情が込められていたとか。 平安時代の歌みたいだな、と思いました。
                                               (10-04-28)