the captured men

 ヨーロッパ初の諮問探偵、シャーロック・ホームズはこれまでの人生の中で恐らくトップ3に入るであろう程の危機に瀕していた。
 今まで数多の事件と冒険に身を投じてきた彼だが、今度の危機はいつもと違う。
 そこに犯罪の跡があるのならば、己の知己と経験を駆使して解決への道を拓くのだが、今回は勝手が違う。

 人とは厄介なものだ。恋や愛という名の幻想に囚われた人は特に。

 その【恋】や【愛】に囚われた唯一無二の友人が自分の元を去る、というのが、この稀代の名探偵の目下の悩みの種であった。


「…いや。種どころか、芽が出て花が咲きそうだ」
 ぷかぁ と煙を吐き出しながら名探偵は一人ごちる。
 櫛を通していないであろう乱れた黒髪、だらしなく襟の開いたシャツを着、よれよれの灰色のガウンを羽織って先程からパイプをくゆらせている。
 ブラック・ウッド卿を捕らえて以来、興味をそそる事件が無くてくさくさしていた所に、友人の婚約話を聞かされた。 婚約のみならず、近い内に結婚をしてベーカー街の部屋を出て行くと言うのだ。
 正に泣きっ面に蜂。いや、カウンターパンチを受けて今にもノックダウンしそうである。

 今まで数々の難事件を解決してきたホームズだが、それは親友であるワトスンの助力があったからこそだ。
 物理的にも、精神的にも。
 実際、人付き合いがあまりよろしくないと自覚している自分が、これほど一人の人間と一緒に何かをやってこれるとは 思ってもいなかった。
 もっと自分に正直になった風に表現するのなら、彼との生活が楽しいのである。
 それに終りが来るなんて、青天の霹靂であった。

「いや。…元々、ヤツは惚れっぽい所があった。たまに美人の依頼人が来るといつもより紳士的な振る舞いをしたり、 それを本に書き記した時も、やたら美辞麗句を使っていた」
 女性は確かに魅力的だろう。だが、それよりも心を奪うものが二人の生活にはあるのだという強い自負がホームズにはあったのだ。
 それが打ち砕かれて、ホームズは少々混乱していた。


 何とかして阻止しなければ。
 いつの間にか日が暮れ、西日が差し込む部屋でホームズは結論を導いた。
 ワトスンの居ない生活なんてとんでもない。
 結婚という幻想に囚われ、自由を失った生活なんてきっと彼には合わないだろう。
 そう、これは妨害ではなく、救済なのだ。親友を誤った道から救い出すのは親友の役目である。

 すぐに様々な案が頭に浮かんでくる。まずは言葉による説得、そして、婚約者に直接会った際に何を言うべきか。 心理的な揺さぶりをかける為に第三者からの言葉もあると効果的だろう…

「…」

 そんな時、不意に虚無感が訪れ、ホームズは思考を止めてベッドに倒れこんだ。
 今は何も考えたくない。



 そうしてどれ程の間横になっていただろうか、コンコンというノックの音でホームズは我に返った。
 ノックの主はわかっていたが、返事をする気にもなれず、無言のまま目を閉じていると ガチャリ と遠慮がちに ノブを回す音がしてワトスンがやって来た。

「…ホームズ、眠ってるのか?」
「…」
 声をかけられて尚、ホームズは応えない。
「夕食の仕度ができたんだが…おい、ホームズ」
 遠慮無しに肩を揺すってくる。これで起きないとさすがにバレると思い、ホームズはゆっくりと目を開けた。
「起きたか。夕食の時間だ。今日はまだ何も食べてないそうじゃないか。ハドスン夫人が心配していたぞ」
 目に入ってきたのは友人の苦笑する顔だった。
 こんな我侭で面倒で偏屈な自分に、無償の優しさと親愛を注いでくれる唯一の人間だ。

「どうした?気分でも悪いなら少し診てみようか?」
 心に沁み入る心地良い声。
「…ワトスン」
「何だ?」
「君は、随分世話焼きだな」
「今更何を言ってるんだ。ほら」
 スッ と手が伸べられる。
 ホームズはしばらくの間呆けた様にワトスンを見上げていた。 やがて痺れを切らしたワトスンが、ホームズの腕を掴むと強引に引っ張って起き上がらせる。
「早くしろよ。こっちは空腹なんだ」
 そう言って歩き出そうとしたワトスンだが、その腕が引っ張られる。見ると、ホームズが だらりと手を伸ばし、シャツを掴んでいたのだ。

「ホームズ?」
「…私は無力な人間だ」
「何を突然」
「私なんかより、君の方が優れていると思う事があるよ」
 珍しく殊勝な態度の親友に、本気で戸惑いを覚えるワトスン。
 婚約の件と遠くない内にここを出る事を伝えて以来、どこか様子が違うと思う事があったが、 今目の前にいる友人は明らかにおかしい。
 いつも自信に満ち溢れているホームズをこの様に変えてしまったのは、もしかしたら自分のせいでは ないかと思うと良心が痛む。
「らしくないじゃないか。疲れてる証拠だ」
 ほら、とホームズを立ち上がらせるとガウンの皺をはたいて紐を結ぶ。
 おおよそ成人男性に対する行為ではないと思ってしまうが、それに気付くのはいつも手を出してしまった後なのだ。

 友人に背中を押されて部屋を出て行くホームズ。
 こうしてワトスンの同情を誘う様な真似をしているのはわざとなのか違うのか、自分でも不確かだ。
 僅かな罪悪感とそれを正しいとする思考と元来の理性とが頭の中で複雑に絡み合う中、誰かが小さく含みのある声で囁いた。



 囚われているのは どちらだか
 



                                                             おわり






あとがき
 ブラック・ウッド逮捕〜死刑執行までの間の出来事です。
 ワトスンに行って欲しくなくてアレコレ悩むホームズ。これ位の葛藤があればいいなあ、と思って書きました。 最後に囁いたのはホームズの理性です。状況を冷静に第3の立場で見ています。
 囚われているのはワトスンだけでなく、ホームズもである。タイトルはそういう意味を込めました。 ワトスンはホームズとメアリの間でまだまだ揺れていると思われます。
 結局彼はどういう行動を取ったのかは、映画の通りでゴザイマスw
 やっぱり手放したくなかったんですね♪
                                               (10-04-04)