ベーカー街221Bに住む、ジョン・H・ワトスン医学博士は時折考える。 アフガン戦争から命からがら帰国し、ロンドンで当ても無く只々漫然と過ごしていた日々の事を。 痛む脚に気を揉みながら、掃き溜めの様な街で過ごした無為な時間時間時間。 支給される金の許す限り過ごしたあの日々と言ったら、思い出しただけで寒気がした。 その日、ロンドンにはしとしとと雨が降っていた。決して激しい訳では無いが、じわりと湿度が高く、 ちょっと動いただけで身体に不快感を覚える様な、そんな日だ。 ワトスンはこんな日が嫌いだった。脚の傷が疼くし、何よりも自然と気分が滅入ってしまう。 そんな日は何もやる気が起きず、自室で本を眺めてみたり、煙草をふかしたりして一日をやり過ごしていた。 そんな日だからこそ、少し昔の事を思い出してしまうのだ。 ぷかぁ と煙草の煙を吐き出すと、窓の方を見る。 雫が垂れて歪むガラスの向こうには、灰色の街並と時折うごめく人々の様子が見て取れた。ここは静かでも、 外の世界はいつもと変わらず動いているのだ。 そうやってぼんやりと外を見ていると、扉をノックする音が聞こえた。 「どうぞ」 「やあ」 入ってきたのはホームズだった。朝食の時に顔を合わせたきりである。 「ハドスン夫人がお茶を用意してくれた。ティータイムにしようじゃないか」 「…もうそんな時間か?」 いつの間にか午後を過ぎていたらしい。ワトスンはゆっくり立ち上がると居間に向かう。 相変わらず雑然とした居間の椅子に腰掛けると、ホームズがてきぱきとお茶をサーブしていく。 ワトスンは口をきかずに、じーっと 友人の細くて神経質そうな指が動き回る様子を眺めていた。 すぐにほのかな薫りのたつ黄金色のティーがカップに注がれた。「ありがとう」と言うと、 ワトスンはカップを口元へ運ぶ。上品な茶葉の香りが鼻孔に広がり、程好い温度の紅茶が喉を潤し、身体へと浸透していくのがわかった。 憂鬱な気分を少しだけ癒してくれる、そんな紅茶だった。 そんな親友の様子を見て、ホームズは表情を和らげる。 「今日は退屈してたみたいだな」 そう言って自分も紅茶をひと口流し込む。 「ああ。今日はどうも気分が乗らなくてね」 「君はこういう日は好かないからな。朝から今まで何してたんだ?」 「特に、何も。本を読んだり、外を眺めたり、色々考え事をしたりもしてた…」 そう言ってワトスンは視線をカップからホームズへと移す。 「例えば、もし、君と出会ってなかったら、今頃どんな暮らしをしてただろう、とか」 ワトスンの言葉に眉を動かすホームズ。それなりに驚いた様だ。 「で、もし私と会ってなかったらどうだって言うんだ?」 「それが…想像できなかった」 苦笑を浮かべるワトスン。 「君と会う前に、しばらく一人でロンドンに住んでたが…あの時の事を思い返すとゾクっとする。 何もしてなかったんだ。何も。只時の過ぎるままに居たんだよ」 「まぁ、君も戦争帰りだったんだ。しかもケガのオマケ付き。少しくらい無気力になっても仕方ないさ」 自重気味に話す相方を珍しいと思いながらもフォローを入れる。 「その事情を差っぴいても情けない暮らしだったね。目的も、希望も生き甲斐も、何もなかった」 少し視線を落として寂しげに微笑む。 「君と会わなけりゃ、そんな日がずっと続いていたのかと思うと恐ろしいよ」 そう肩をすくめて話す友人を見て、事件の無い時の自分と似た様なものだろうかとホームズは考えた。 と、同時に別の考えが頭をよぎる。点と点が結びつき、ひとつの形を成した時、ホームズは嬉しくなってくすりと笑みをこぼした。 「何がおかしい?」 「…君が【恐ろしい】と言った生活は、私に例えるなら事件がまったく起きない日々、そう思っていいかな?」 事件が無い日のホームズの不精&自堕落っぷりは十二分に知っていた為、こくりと頷く。 「私は事件や謎がなければ生きられない、そういう性分なのも知ってるな?」 「何を今更」 「ならば、私にとっての【事件】が、君にとっての【私】だという事になるな」 得意気に口の端を曲げるホームズと、眉間に皺を寄せて首をかしげるワトスン。 「わからないか?my dear。私と出会ってない暮らしは、想像できない・したくない程つまらなくて無意味なんだろう?」 「? …!! あっ」 ようやく意味が飲み込めたワトスンは思わず立ち上がると目を見開いた。 そんな様子を楽しげに眺めながらサンドウィッチをほうばるホームズ。 「ちょっと待て、ホームズ。さっきの発言は無しだ。撤回する!」 「お断りだ。この耳でしっかり聞いたよ、ドクター。今更撤回すると言った所で、一度口走った言葉はもう引っ込みが付かない」 顔を真っ赤にしながら返す言葉が見つからず、頭を抱えるワトスン。 「認めろよ、ワトスン。その方が楽だぜ」 「うるさいっ」 腹立ち紛れにカップに残った紅茶を飲み干した。 一方ホームズは、明らかに愉快そうに意地悪く笑いながら、ガタガタと椅子に座ったままワトスンの元まで移動してくる。 「ありがたいね、ワトスン。私の居ない生活は、考えられない程無意味で恐ろしいなんて」 「おい」 「それってつまり、君の人生に私は絶対に必要って事か?」 「ホームズ」 「友達冥利に尽きるね、その言葉。ありがたくて涙が出る」 「ホームズ!」 「言えよ、『私は君無しじゃ生きられない!』って、情熱的に、愛を込めて」 「ホームズ!!」 それまで顔を伏せていたワトスンだが、ホームズの言葉に耐え切れず顔を上げる。 すると、すぐ間近に微笑を浮かべた友人の顔があった。軽い口調とは裏腹に、その眼差しは事件の最中かと思う程 真剣なものだとワトスンにはわかった。 黒い双眸は雄弁に語る。 今更否定などできる訳も無く、かと言って相手の思い通りにするのも悔しく、そんな事を考えている内に頭の中が 混乱して何が何だかわからなくなってしまった。 「何か言う事は?」 「…ホームズ。君に出会えた事に、感謝…している」 たまに、いや、腹の立つ思いをする事は頻繁にあるけれど、でも、今の自分はこの生活が気に入ってるのだ。 それを否定する事はできなかった。 「ふむ。まあ、今日はそれでもいいか」 「?」 ようやく視線が逸れて、ホッとした瞬間、ホームズの唇が頬に触れた。 「わ!!」 「驚くとは失礼な。たかがキス位で。それとも口の方が良かったか?」 意地悪く笑うホームズに、ふつふつと怒りが湧いてくる。 何か文句のひとつでも言ってやろうと思ったが、先にホームズが口を開いた。 「大分元気になったじゃないか、ワトスン。私としてもね、同居人が憂鬱そうにしてると気が滅入るんだよ」 そう言われて初めて、ワトスンは先程までの鬱蒼とした気分が晴れているのに気が付いた。 これは全てホームズの策略なのか。それとも…? と、考え始めてみたが、深く考えるのを止めた。今は、せっかく晴れたこの気分をそのままにしておきたいと思ったからだ。 コホン、とひとつ咳払いをすると、ワトスンは再び椅子に座り直す。 そんなワトスンにホームズは二杯目の紅茶とスコーンを勧めた。 「…ありがとう、ホームズ」 「どう致しまして」 まるで何事も無かった様に、自然な空気の中で 雨の日のティータイムが過ぎていった。 おしまい |
あとがき でも、結婚したい程好きな人ができると考えは変わるものなのですね。 メアリーと出会う前の2人です。今回はホムワト気味にしてみました。つか、両想い♪ やっぱりホムワトがしっくり来ますww 珍しくやり込められるドクターでした。言葉にしなかったものの、ホームズだってもう、ワト無しには生きられない!! というのが映画を観るとすごく良くわかります。 ホームズに出会う前にロンドンで無為な時間を過ごしていた、というのは『緋色の研究』に載っています♪ もうちょっとイチャコラさせようとしましたが…失敗した模様。 (10-03-27) |