その日、ワトスンは3日振りにベーカー街の自室に帰ってきた。 大学時代の友人達と会う為にロンドンを離れていたのだ。 医学生だった友人達の中には、開業した者、大学病院に勤めている者、医学とは別の道を歩んでいる者と様々だった。 澄んだ空気の中、久しぶりに旧交を温めて身も心もさっぱりして戻ってきたワトスンは、自分の部屋に入ると 荷を解くのもそこそこに、友人への土産を手に隣室へのドアを開けた。 「!!何だ、これは…」 ワトスンが驚きの声を上げる。 外は眩しい太陽が照っているはずなのに、この部屋には深夜の様な闇が辺りを満たしている。さらに一歩進んで みると爪先に何かがぶつかり(恐らく本の山だと思われる)音を立てて崩れた様だ。 ドアと、重苦しく垂れ下がっているカーテンから僅かに漏れている明かりを頼りに、ワトスンは部屋の主を探そうと試みる。 と、言っても恐らくベッドに居ると思われるが。 どうにかしてベッドまで近寄ると、中央部が膨らんでいるのが見て取れた。両腕で勢い良く掛け布団を引っぺがすと、 中から黒い頭が現れる。 「ホームズ?」 ワトスンが呼びかけると、仰向けに体制を直した友人がゆっくりと目を開けた。 「やあ、ワトスン。久しぶりだね。学生時代の友人達との会合は楽しかったみたいだな。結構。何よりだ」 そう早口でまくしかけると、愛想の欠片も無い笑みを浮かべて再び布団をかぶってしまう。 だが、ワトスンが素早く布団を剥がした。 「君は結構じゃないみたいだね。何だ、この部屋の有様は!みろよ、ろくに足の踏み場もないじゃないか!」 「別に構わないよ。来客がある訳でも無し」 抑揚の無い口調でそう言うと、ホームズはくるりと横向きになり、視界からワトスンを外した。 だが、今度はホームズの両肩を掴むとぐいっと正面を向かせる。 「だからと言って、不精して良い理由にはならないだろ!」 「何だ、今日は随分積極的だな。でも、ちょっと力入れすぎじゃないか?痛いんだが」 ワトスンの端正な顔(怒ってはいるが)を余裕の面持ちで見つめ返すホームズ。 「…」 どんなに注意してもまったく悪びれない友人に対して、先程までの晴々とした気分がすっかり台無しになってしまったワトスン。 それでもホームズを心の底から憎めないのは、その態度や言動の内にある自分に対する好意があるからだ。 そして、稀代の名探偵である友人が自分を頼ってくれるという状況も悪くないと思っている。 そんな自分の考えなんて、きっとホームズもお見通しなのだろう。その、何もかも承知の上でこの態度なんだという 事実が、時折無性に悔しくなる。 今だって、自分がホームズを3日も放って友人に会いに行った、そしてそれを楽しんだ、という事が気に食わないんだろう。 何て手間のかかる友人だ!! 「…悪かったな。手間がかかって」 「え!?」 「君は子供みたいに、実にわかり易い表情を浮かべるんだぜ。自覚した方がいい」 そう言うとホームズは腕をにゅっと伸ばしてワトスンの両肩を掴むと、一瞬の内に捻ってベッドに押し付けた。 形勢逆転である。 何が起こったのかわからずに目を丸くしているワトスンを見ると、ホームズはようやく感情を込めてにやりと不適に笑う。 その笑顔が癪に障ったので、ワトスンは一気に上体を持ち上げてヘッドバットを食らわそうと試みたが、予備動作を察したホームズは両肩をさらに 強く抑えてそれを阻止した。 「甘いな、ワトスン。バレバレだ」 「このっ!!」 バタン ワトスンが反撃に入ろうとした時、不意に扉が開き、そこから家主であるハドスン夫人がお茶を乗せたトレイを手に立っていた。 「あ」 「…ごきげんよう、ハドスン夫人」 「……ノックをしても返事が無かったので引き返そうとしたのですが、大きな音が聞こえたので」 動じた様子の無いハドスン夫人の視線は、ベッドの上で組み合っている2人を冷たく射る。 「…お邪魔しました」 短い溜息をつくと、ハドスン夫人はくるりと後ろを向く。 「あ、ハドスンさん、これは…」 バタン!! 再び扉が閉ざされ、静かな部屋に夫人が階段を下りていく足音が響いていた。 その音を聞きながら顔を両手で押さえるワトスンと、どこ吹く風でワトスンに跨ったままのホームズ。 「どうした?ワトスン」 「どうしたもこうしたも!!夫人は誤解したぞ!!」 「だからと言って、彼女は警察にタレ込む様な事はしないさ」 「そういう問題じゃないっ!」 「勝手に誤解させとけよ」 まったく意に介さぬ様子で友人の言葉を軽く流すと、ホームズはゆっくりと顔を近づけた。 しかし、顔を覆っていた手を素早く上に突き出すワトスン。その掌底は見事に近づいていた顔の顎に命中し、 ホームズは思わずのけぞる。 その隙にワトスンは怒りの形相でつかつかと歩くと、自室へ戻っていった。 友人が消えた扉を見ながら、ホームズは顎を押さえつつ苦笑いを浮かべている。 「…少し遊びすぎたかな?」 ベッドの上であぐらをかき、その上に片肘をついて呟いた。 バタン 不意に扉からワトスンが再び現れた。しかし、その顔はまだ怒っている。 「ワトスン?」 ワトスンは無言で何かをホームズに向かって放り投げた。 「…ワイン?」 「土産だ」 短く言うと再び音を立てて扉を閉めてしまう。 ホームズはワインの壜を窓に向かってかざすと、中のワインが光を受けて魅力的な色を揺らしている。 しばらくその壜を弄んでいると、やがて満足した風に笑みを浮かべてカーテンを開けた。 差し込む光に眉をひそめるが、明るくなった室内から自分のガウンを探すとそれを羽織り、ワインを片手に歩き出す。 ハドスン夫人の誤解を解き、今夜の食事はこのワインに合う物を用意してもらおう。 そうすれば、友人の機嫌も少しは…いや、ちゃんと治るだろう。 そう目論見ながら、足音を潜めてホームズは階段を降りていった。 おしまい |
あとがき 原作版のワトスン⇒我侭で気まぐれなホームズに対して甘めなオカン 映画版のワトスン⇒我侭で気まぐれなホームズに対して鉄拳制裁上等のパワフルオカン そんなイメージで書いてます。 原作ではホムワトですが、映画版は…やっぱりホムワト寄りな気がします。 一応どっちとも取れる感じのSSにしてますがどうでしょうか? どっちがどっちでも、イチャイチャしてる2人が好きです。 (10-03-21) |