3番目の同居人

「…」
「…」


 ベイカー街221Bのごちゃっとした幾分薄汚れた部屋で、2人の紳士が椅子に腰掛けている。
 2人は長い脚を窮屈そうに投げ出し、険しい顔で互いに睨み合っていた。

「…ホームズ。私の犬を実験台に使うのは止めてくれと何度言ったらわかるんだ?」
「君からその警告を聞くのはこれで38回目だよ、ワトスン。その都度言ってるが、悪影響は無い。 その効能を確かめる為に協力してもらってるんだ。彼もここの同居人なんだから、それ位協力してもらっても 罰は当たらないだろ」
 悪びれた様子も無く、ホームズは両手を広げて肩をすくめた。
 その態度にカチンとしたワトスンはさらに語気を強めて言い返す。
「怪しげな胡散臭い材料で作った薬を同居人に使うなんてどうかしてる!万が一って事があるだろ!?」
「所がね、ワトスン。君と違ってこちらの同居人は家賃をシェアしていないんだな、これが。だから、その身をもって 私の仕事に付き合ってもらっても良いじゃないか」
「犬に家賃が払える訳無いだろうっ!」
 大声で怒鳴りながらかざした杖の先には、腹を上にして気持ち良さそうに眠るブルドッグが居た。

「大声を出すなよ、ワトスン。我らの同居人が起きてしまうだろう?見ろよ、あんなに気持ち良さそうに寝てるのに」
「君が今、この場で、もう2度とグラッドストーンを実験に使わないと誓うなら大人しく部屋に引っ込むよ」

 こんな感じで話は平行線を辿っていた。
 これは2人にとっては珍しい事ではなく、むしろホームズにしてみればこの口論を楽しんでいる節がある。
 普通に生活したいだけなのに。なのにこの気まぐれな名探偵には奇行が多い。
 しかし、可愛い犬に万が一の事があっては敵わない。だからせめて、この行為だけは何とかして止めさせたいとワトスンは考えていた。

「それとも、」
 ワトスンが反撃の言葉を捜している内にホームズが切り出した。
「君が実験に付き合ってくれるというなら話は別だが」
「なっ…ホームズ、君は友人を人体実験に使うと言うのか!?」
「だから、自信があるから提案してるんだよ。そもそも!」
 ホームズは自信満々な笑みを浮かべながら立ち上がると、ワトスンの顔に指を突きつける。
「この私が本気になれば、無断で君に一服盛る事なんて容易い事だと思わないか?」
「!!」
 驚いているワトスンの、怪我をしていない方の膝の上にホームズは腰掛けると、腕を回してぐいっと肩を引き寄せた。
 相棒の口元からはシップスの匂いが漂っている。
「寝ている君の枕元に、麻酔薬を染みこませた布をそっと置く。朝の紅茶のカップに薬を一滴垂らす。私にかかれば いとも簡単に成し得る事なんだぜ」
 そう耳元で囁くと、にやりと不適な笑みを付け足した。
 そんな友人をちらと見ると、ワトスンは深い溜息を漏らし、がっくりとうなだれた。
 かと思うと、突如顔を上げてすぐそこにあるホームズの額に思い切り自分の額をぶつける。
 ゴツッ という鈍い音と共にホームズが小さな呻きを上げて額を押さえた。
「もしそんな真似をしてみろ。私はすぐにここを出て行くからな!!」
 痛がるホームズを膝に乗せたまま言い放つ。
「出て行くだって!?今の君にそんな財力があるとは思えないな。それに、」
「…それに、何だって言うんだ!?」

「この冒険に満ち溢れた生活から抜け出せると、本気で思っているのか?」
「…!!」

 思わぬタイミングで本音を突いてくる。
 確信犯なのは十分にわかっているから余計にタチが悪い。

 返す言葉が見つからずに、ワトスンが再びうなだれながら黙っていると、ホームズが得意気に口笛を吹き始めた。
「…ホームズ」
「何だい? My dear」
「…せめて、マウスを使ってくれ。頼む」
 喉の奥から搾り出した声だ。
 ホームズはしばしの間考え込むと、『承知した』と返した。
 それを聞いてワトスンがようやく顔を上げると、視界に相棒の手が入ってくる。
 すぐにその手をがっしりと握ると、ようやく笑みを浮かべた。

「商談が成立した所で、そろそろ膝から降りてくれないか?ホームズ」
「これは失礼。うっかり長居してしまった」
 おどける様に立ち上がると、自分の椅子に腰掛け直した。膝が空いたワトスンは、立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
 だが、しばらくして、手に濡れたタオルを2つ携えて戻って来ると、ひとつをホームズに放り投げた。
「額が腫れたままだと、人前に出られないだろ?いつ依頼人が来るのかわからないんだから」
 そう言いながら自分の額にもタオルを当てると、鈍い痛みがスーっと引いていく。

「ありがとう、ワトスン。まったく、君は医者の鑑だな」
「医者?友人の鑑と言ってくれないのか?」
「これは失礼。君は素晴らしい唯一無二の親友だよ」
「ありがとう、my friend」
 胸に手を当て、恭しく頭を垂れるワトスン。
 そうして互いに顔を見やると、どちらからともなく笑いあった。
 


                                                おしまい



あとがき
映画版より以前の時代設定です。ワトスン婚約前

先に原作版ホームズのSSを書いている身としては変な感じでした。
映画版の感じが出ているかちょっと不安です。
予想を上回る程のイチャイチャ映画だったので、今後どんな話を書いていこうか画策中です。
※シップスとは、ワトが愛用している煙草の銘柄です(緋色の研究より)
                                               (10-03-13)