アンドゥインの大河を下る一行。 ある日の夜、川岸で休んでいるとき、寝ずの番をしていたはずのアラゴルンとボロミアがいないことに気づいた。 しばらくすると静寂の闇の中、サラサラと水の流れる音しか聞こえていなかったのに、それらを破って2人の怒声が聞こえてきた。 聞きたくない。そんな話。 眉を悲しげにひそめてフロドは毛布を深くかぶり、目を閉じた。 胸の内の指輪のひんやりとした感触が、やけに身に沁みた。 永い間、ゴンドールには王がいなかった。 いつか、いつの日か。 そう夢見ていた頃もあったが、所詮夢は夢なのだと思ったのはいつだろう。 だがある日、イシルディアの末裔である男がいきなり現れた。その驚きたるや。あの時自分が何を思っていたのかすら、今でも思い出せない。 『ゴンドールに王はいない。必要ともしていない。』 思えばずいぶん失礼な事を言ったものだ、と面と向かって話せるようになったのは最近の事。 あの流浪の野伏をわれらが王だと、私が仕えるべき人なのだと、そう考え始めていた。 なのに・・・ 濃紺の夜空には星がまたたき、夜風はかすかに木々を揺らし、遥か空の方で雲を追い立てている。 欠けた月のおぼろげな光の中。 「指輪はお前の故郷には近づけんぞ!」 静かに、しかし怒気を含んだ声でアラゴルンはボロミアの胸ぐらをつかみ上げて言った。 「!」 そしてボロミアをきっと睨むと手を離し、その場を離れようとする。 「・・『お前の故郷』・・?」 ぼそりとボロミアがつぶやくと、アラゴルンは振り返った。 「ゴンドールを、ミナス・ティリスを私の故郷と言うか、アラゴルン。」 そう言ったボロミアは複雑な顔をしていた。怒りと喪失感と、そしてどこか笑いが入り混じっている様な。 「ではアラゴルン、あんたは何者だ?そしてあんたの真の名は何というのだ?アラゴルン?ストライダー?デュナダン?ロスロリアンの奥方はエレスサールと呼んでいた。エルフ達はエステル、とも。」 皮肉な調子で両手を広げながらボロミアは歩み寄る。アラゴルンと再び対峙すると、その瞳は冷たく変わった。 アラゴルンは思わずカッとなってもう一度彼の胸ぐらを掴む。だがすぐにボロミアもアラゴルンの胸ぐらを掴み、ぐいっと引き寄せた。 「お前に何がわかる!」 「アンタこそ私の何を知ってるというのだ!正直あんたには失望した、アラゴルン。我らの王が、・・・この様な男だったとは!」 「何を!・・」 「アンタは知っているのか!?声にするのもおぞましいかの地の闇とあの恐ろしい目を毎日臨み、怯える日々を。心安らぐ事の無い日々を。」 続く言葉が一瞬途切れる。 「・・・あんたに想像できるか?幾世代もの執政達が王無き高き王座を毎日のように眺め、その下に座しながら政(まつりごと)を行うのを、その気持ちを。・・・・欲しくても、どんなに望んでも決して手に入ることのないものに焦がれる この心を!」 始めは怒りを浮かべていた彼の表情が次第に曇り、沈んでいく。瞳から光が消えていく。 「・・・私だってあんたの気持ちはわからない。私はあんたの事を何一つ知らないのだから。あんたはそれを語ってはくれなかったから。・・初めから与えられた者の気持ちは、想像できない。わからない、わかりようがない・・・」 「・・・ボロミア。」 「・・・我らは似ているようであまりにも違いすぎるのか。生まれ育った場所も、話す言葉も、見てきたものも、・・・この体に流れるものさえも・・・!」 消え入りそうな声。 そうしてボロミアは深く頭を沈めた。 しばらくの間、沈黙が静かに重く、2人を包む。 「ハッ!」 短く息をつき、ボロミアはその手を乱暴に突き返した。 「・・もういい。所詮、我らは他人だ。他人同士、真に解かり合う事など不可能なのだ。・・私は、1人でゴンドールへ帰る。これ以上付き合ってはいられぬ。」 「何だと?会議の決定に従うと言ってたではないか!?」 とがめるような視線を軽く受け流すボロミア。 「・・すぐには去らぬ。これからどのルートを通るのか知らないが、ゴンドールまでは付き合おう。それ以上は行かぬ。指輪の力が得られないのなら、私は私の力で故郷を守る。これ以上父やファラミアや民に負担をかけさせたくない。フロドやほかの者には悪いが、私には他にも守らねばならぬ者が大勢いる。それに、私が抜けてもあんた達がいれば大丈夫だろう。」 その眼は遥か遠くの、彼の故郷に向けられていた。怒りは既に姿を潜め、誰かを想うやさしい、そしてどこかさびしげな顔をしていた。 「・・今の話はまだ他の者には言うな。」 そう言って振り返るとボロミアは歩き出した。 「馬鹿を言うな!」 グイ、とアラゴルンはボロミアの腕を取り、強引に振り返らせる。 「・・馬鹿を言うな。ガンダルフがいない今、お前が抜けたら支障が出るのは明らかだ。」 ボロミアは何も言い返さず、しばらく口をつぐんでいたが、やがて静かに言った。 「・・あんたがゴンドールに戻りたくないのならそれでもかまわない。あんたの人生はあんたのものだ。だが、私の人生は国のためにある。」 「・・・何故、そこまで?」 あまりにも強固なその志に、アラゴルンは羨望すら感じた。 「私は第26代執政・デネソール2世の息子だ。ゴンドールが、あの都が、人々が私にとって最優先なのだ。だから私は帰る。あんたは旅を続けろ。あの指輪を葬ればすべてが元通りになる。そうしたら自分の好きにすればいい。それを咎める者はいないだろう。」 「そんなに簡単に事が済むはずがない。」 「だから私は戻るのだ。」 「?」 「・・これは、・・言うつもりはなかったのだが・・。国に戻ったらローハンと改めて手を結ぼうと思っている。そして両国の兵を集め、共にモルドールへ攻める。あんた達はそのスキに入り込めばいい。」 ボロミアは自ら囮になろうと言うのだ。 ゴンドールを守る為に指輪の力を借りることが出来ないのならば、自らがゴンドールに戻り、兵を率いてモルドールへ攻める。 指輪を壊さなければ中つ国に平和は来ない。もちろんゴンドールにも。 あの小さな者は自分が指輪を葬ると言った。彼の友人たちはこの生きるか死ぬかの旅に無償で、友情の為に同行した。 初めは正直、足手まといになると思った。しかし彼らと過ごす内に、そんな考えは消えてしまった。 「しかし、今のゴンドールとローハンでは・・」 「侮るなっ!アラゴルン!」 口調を荒げる。 「ゴンドールにはまだ優秀な武人が残っている。募れば兵も集まるだろう。ローハンには誉れ高き騎士団がいる。彼らに誇りと勇気が加われば、例え人間であろうと十分にモルドールに対抗できるだろう。あの小さき者たちでさえ、己の命を賭してまでこの旅に同行したのだ。我らとて同じ事ができるはず。」 2つの強い信念を持った瞳がアラゴルンを射る。 その人をうらやましい、と思ったが口にはしないでいた。誇り高き彼が、今その言葉を聞いても、おそらく受け取ってはもらえないだろうから。 そうして黙ったままでいると、もう話すことは無いのだとみなし、「戻る」と小さくつぶやき、ボロミアはアラゴルンの側を通り過ぎた。 「ボロミア・・・」 はっと振り向き、名を呼んでみたが、彼は振り返らなかった。 風はにわかに勢いを増し、雲が月をうっすらと覆い隠す。木々がひときわ大きな声をあげて揺れた。 この大河のすべての水をもってしても満たす事がかなわない、そんな空虚さが後に残った。 翌日、一行は再び河を下った。 古の王の巨像の間を抜け、アモン=ヘンに辿り着く。 岸へ上がり、ボロミアは火にくべる為の枝を拾いに行った。誰にも見られないように。 彼は1人で考える時間が欲しかった。カヌーをこいでいる間は2人の陽気なホビットの愉快な話が彼の気を紛らわせてくれていた。 過去の栄光の跡がそこかしこに見える森の中を歩いていると、どこからか声がした。前にも聞いた事のある声。 少女の様な、少年の様な、高くよく通る声。 それはひどく心地よく、甘美な音色であった。 「っ、これは・・・」 本能で耳をふさぐ。これを聞いてはいけない。自分が自分でなくなってしまう。 しかしその魅惑的な声は彼の手をするりと通り、耳へ、そして頭の中へ浸透していく。 抗った。力の限り。 その最中、彼の視界に人影が入ってきた。 「・・フロド・・」 指輪所持者が現れた。 彼の頭は声でいっぱいになり、白くはじけた。 次に彼が気がつくと、彼は地面に四肢を付き、涙を流していた。 心の中に溢れ出す後悔の念。 「・・私は、・・私は、何て事を・・・」 自分が恥ずかしい、そして情けない。人とは、私とは何て、何て弱い生きものだろう。 襲い掛かる自責の念。 しかし、彼の思考がふっと途切れた。 気がつくと当たりに邪悪な気配が満ちていた。かなりの数だ。 「・・行かねば。」 仲間達の顔が頭をよぎる。今はそれだけしか考えられなかった。 走って走って走って、 ようやく彼はオークの群れの中、孤立する2人のホビットを見つけた。 「うおおおおおぉ・・・っ!!」 雄々しく声をあげてボロミアは剣を抜いた。 力を込めたアラゴルンの一閃が、ウルク=ハイの一団の首領、ラーツの首をはねる。 「・・っハァ、はぁ、・・、ボロミアっ」 先ほど見たときは矢を体に受けてひざを付いていた。 今、彼は木の根元に横たわっていた。その胸には深々と矢が3本突き刺さっている。 嗚呼・・・私は、私は遅かったのか? ボロミアの元へ駆け寄ると、息も絶え絶えに、彼は己の過ちを告白する。 そんな事はどうでもよかった。今、目の前で1人の男が逝こうとしている。その現実が耐えられなかった。 死の淵にしてなお、彼は故郷とそこに住まう人々の事を気にかけていた。 それなのに自分は、私は、 「・・・私の血にどれほどの力があるかわからない。だが誓う。我らの民と都を滅亡から救うと。」 その言葉を聴くと、ボロミアがはっと眼を開く。その顔に安堵が浮かんだ。 「・・我らの・・民。」 「そうだ、我らの民だ。」 そうして彼は己の剣を胸に抱く。 「・・・あなたに、ついて行きたかった・・我が兄弟、・・我が将・・・我が、王よ・・・」 その深いみどりの瞳が、安堵の色を浮かべた後、静かに閉じられた。そこに王を、彼が真に望んでいた王の姿を映しながら。 ここにデネソールの息子・ボロミア、勇敢なる武人がこの世を去った。 残されたアラゴルンは声無き祈りを口に込め、そっと彼の額に口づける。 「安らかに眠れ・・ゴンドールの子よ。」 冷たい感触が唇から離れない。熱い涙が両の頬を伝った。 嵐が去った森の中、柔らかな日がさし、木漏れ日となる。遠くの方で小鳥の声が、どこか悲しげに響く。 そこだけ時が止まっている様だった。 少しでも別れの時間を延ばすよう。 ながく、短いその間、彼はそこに立ち尽くしていた。 結局、フロドとサムは2人でモルドールへ旅立った。 メリーとピピンはオークに連れ去られた。 一行は連れ去られた2人のホビットを追いかける事となった。 その前に、3人はボロミアを弔った。彼を船に乗せ、河にゆだねる。 「・・・この河が、ボロミアの魂を彼の故郷まで導いてくれるよう・・」 身近な者の死に直面した若きエルフは、その青い双眸に戸惑いと悲しみをたたえながら船を見送り、つぶやいた。 永遠に近い時を持つエルフは、死というものに接する機会がほとんど無い。レゴラスもその例に漏れず、ボロミアの死を目の当たりにし、困惑していた。 河に向かい、小さくエルフのことばで祈りを奉げる。 ドワーフもまた、悲しみに包まれていた。 この旅を初めてもう3度目になる。この様な辛い旅になるとは思っていなかった。 あの様な偉丈夫が、まさか。 船を見送り、ギムリは今一度、天を仰いだ。 アラゴルンはボロミアの籠手を身に着けていた。 船が滝に消えていくのを見ながら、その手は籠手を丁寧になぞる。 自分を責める言葉が次から次へと頭を巡る。しかし、彼はそれを振り払った。自責した所で何が見出せるのか。今はそんな時間は無い。今の私にはなすべき事がありすぎる。 行動だ。今はそれが償いとなる。 「・・そうだろう?ボロミア。」 悲しげな、しかし今はそれが精一杯の笑顔をたむける。 そしてすう、と息を吸い込み、眼を閉じ、一気に吐く。彼は仲間たちを振り返った。 「さあ、行こう。我らがなすべき事をしなければ。」 その双眼に再び生気と強い意志が宿る。王の眼だ。 3人は走り出した。 振り返ることなく、まっすぐに。 いつか、いつの日か再び我らが会った時、胸を張っていられる様に。 恥じる事無く、あなたの顔が見られる様に。 その日の為に、私は生きよう。 Fin |
アトガキ 実はこれ、2番目に書いたLORのSSです。映画ベースで、原作を都合のいいように交えて、書いてみました。これを書いたのは・・TTTは観ていましたが、DVD発売はまだの頃。今回サイトにアップするにあたって、修正を加えました。と、いうのも全部観て・読んでないのにこんな風に書いていいのかしら?と疑問に思ったので。案の定、修正前を今見てみると、「あ、イタ〜」なモノでした(笑)。(この、書いた本人でも恥ずかしい!と思うような修正前のもの、2,3人の方が読んでいるのです・・いやん!) で、今回修正したのはほとんどアンドゥインでのアラボロの口論の内容です。 それで、RotKを観ながらビックリしたのは、指輪を捨てさせる為に陽動作戦を取る、というのが当たっていた!という事。ボロミアならどうするかなあ〜と想像したのですが、まさか。ハハ。偶然ってあるものですね。 あ、今回の話は「静かの森の〜」に続きません(汗)次にあったとき、全然胸張ってないし。むしろ弱気だし・・。だから、アレは今回のものとは別物です。パラレル、パラレル。 |