映画版 指輪物語総評
 さて、3部作無事に観られる事が出来たし、何とか原作も読んだ事ですし、3作の総評をば。・・・とか言いつつ、執政家語りになってしまった気も。
◎ 『映像化』ではなく、『映画化』なのです。

 LORの映画について色々批評やら感想やらを雑誌や感想やらファンサイトで色々読みましたが、ここで『映画』としてのLORについてちょこっと。
 原作やら関連書を読んだ今なら、よくよく考えれば、あれだけの長さをよく映画化(not映像化)できたなあ、と。PJを初め、スタッフ一同の働きはすごい。その表れとして、各映画賞を総ナメにした挙句、アカデミーで過去の記録とタイの11部門制覇!しかも、11問ノミネート中の11部門制覇、パーフェクトですよ。しかもしかも!監督賞と作品賞が獲れてる辺りもスゴイ!!・・・ちなみにFotRは13部門もノミネートされてたんですよねー。
 ある映画評に、原作を全て忠実に映像化してしまったら、それは映画にはならない、という事が書いてありました。その通りだと思います。(中には原作との違いを逐一上げてここは違う、本当はこうだ、と指摘してる方もいまして、でも私たちで気づく違いなんて、監督や脚本家は100も承知でやってるんだと思いますよ。内容解釈について述べるならわかりますが、違いを挙げても仕方ない事だなあ、と。) ただでも3部作一気に撮影してしまう、というリスク(ヒットするかどうかもわからない状態で。しかも、PJ監督はハリウッドではまだ名前もあまり知られていなかっただろうですし。)を負いながら、見事成功させた、と思います。
 『映画』、という媒体をとる以上、監督・スタッフ達の満足を満たすだけでは仕事になりません。映画を撮る、というのは商売でもあるわけです。製作側(配給会社)としてはそれ分のお金を出す訳ですので、出した分(それ以上)返ってくるよう、製作側はそういう風に作らなければいけないのです。そうしないと映画を撮り続けることはできないので。(ミニシアター系作品はまた少し違ってきますが。)
 ですので、限られた時間(撮影期間、上映時間を含む)と資金とを駆使して完成にこぎつけ、この様な結果をもたらした監督を始め、製作スタッフは本当にスゴイ!と思いますよ。
 中庸、という言葉があるように、自分たちが撮りたいものと観客・配給側が求めているものとのバランスと折り合いを上手くつけることが大事になってきます。LORの場合、SEEを出す、というのもその折り合いのつけ方の一つかと。
 いやー、何かお金とか商売とか夢の無い事を言ってしまいましたが、LORファンだボロだ豆だというのを除いて考えると、こういう評価もありかなあ、と。
とはいえ、
 色んなサイトを回って、感想なんかを見てみますと、すんなり良かったわ、という方は少ないですね。いえ、私も今となっては大いに不満に思うところあるんですけどね・・・
 この映画3部作を観ているとですね、映画としてのストーリー、流れ、盛り上がり云々をあまりにも考慮するあまり、キャラが潰れてしまった、ストーリーを変えてしまった、と思わずにはいられません。映画は不特定多数の人が観ます。例え原作を知らない人が観てもすんなり受け入れられる様な作品を作らなくてはならない訳です。実際、興行収入だけみてみると、大いに成功ですよ。それだけ沢山の人がこの作品に興味を持ち、観に来てくれた訳ですから。『映画』としては大成功ですね。色んな映画賞も取りましたし。ですが、原作ファンとしては不満が残る所も多々有りですよね、『何で? どうして!?』
 既に原作を読んでいる人は、『もし、この原作を知らないで映画を観ていたら、どんな感想を持ったでしょう。』という問いには答えられませんよね?(私だって今となっては無理です)たまたま私は映画を観るより前に原作に触れることはなかったですが。原作を知らなくっても、案外すんなり受け入れられるんですよ。あの映画(もちろん劇場版、今思えば、そういう風に作ったんだろうなあ、と)。あの字幕でも。何せ何も知りませんからね、映画がそうだ、と言えばああ、そうなんだ。ファラミアってああいう性格なのね、デネソールってこんな人なんだ、ゴルンとアルウェンはラブラブだなー!ってな感じで。それで後から原作を読むと 『え!』 『ええ!!??』 『はァ!?』  と、なるわけです(笑)。
 特に、今となって思うのは執政家の扱いです。ただでも不幸なフーリン家が映画では尚更不憫な扱いに。『王還りますまで、王の御名において杖を持ちて統治す』って今の今までがんばってきたのに・・・では、何ゆえこのいじらしいフーリン家の皆様がこの様な扱いを受けていらっしゃるのか。ちょっと考えてみましょう。
 それでは、皆様、パンフレットでも映画雑誌の付録でも中つ国パスポートでもよいですので、キャラクター紹介が書かれてあるものを取り出してみて下さい。キャラたちは種族ごと、そして白の勢力と黒(闇)の勢力に分かれてますよね?闇の勢力の大ボスはサウロン。でもサウロンって、実体を持たないあの目のみで軍隊動かしたり、フロドを脅しつけたり(笑)してますが、映画はヴィジュアルが命です!原作を知らない観客はあの目だけを見てもぴんとこないでしょう。かと言って、あの下っ端らしきオークだのウルクだけでは数だけあっても所詮下っ端。役不足です。
 ですので、ある程度わかり易い、存在感のある『悪役』が必要になってくる訳です。それがハッキリしてるのがFotR、TTTにおけるサルマン(や蛇の舌)、ナズグル(個性ナッシングですしね)がそうでしょう。ですが、毎回毎回オーク軍とサウロンを敵にまわすってのもストーリーとして面白くないんですよ。白の勢力は毎回毎回仲間がどんどん増えていく(逆に増えすぎなので、双子やイムラヒルさんやハルバラドなどがカットされた、のかも)のに、闇の勢力はFotRからさほどメンバーに変化は無し。まあ、あんまり認めたくありませんが、ボロミアもその役目の一端を担ってると思います。劇場版にロスロリアンの口論のシーンが無いのが致命的。
 ファラミアだって性格が原作と変わってしまったのはこの辺の事情も関係してますって。絶対。コメンタリーでは父親との云々、第3部でどーのこーのと言ってますが、じゃあ、デネソールの立場はどうなるんですか!?PJ。フォロー無し じゃん!!(それともSEEでフォローが入るのかしら?)・・・話をもどしまして、フロドとサムの道中、ゴラムからシェロブへの間、あまりにも平坦なので、ここで前作で指輪をとろうとしたボロミアの弟をああいう人物として登場させる事によって、場に緊張が走り、盛り上がるわけです。剣を突きつけるわ、父親んトコに連れてく言うわ。ファラミアも映画版TTTでは、フロド達の行く手を脅かす一人なんですよ。・・・すべては映画の流れが単調にならない様にする為(ただでも上映時間が長いし、入れなければいけない話が多すぎる)、ストーリーに起伏と緊張感をつけるため、と考えても仕方ないようなつくりですよね。
 さらに、RotKではサルマンもういませんので、その役目がデネソールに回ってきたかなあ、と(ボロミア→ファラミア→デネソールの執政親子・バトンリレー)。TTT・SEEで既にその予感が。コメンタリーでノーブルさんがさりげにフォローしてるのかなあ、と今なら思えます。
 その死に方が原作と違っているのもしかり(原作の方が堂々としてる、というか高貴な感じが)、セオデンと仲悪さげに描かれているのもしかり(これ、今となっては悔しいワンシーンでした〈涙〉)、弓矢で援軍を求めていた、というのも削除されてるのもしかり。

要するに、観衆は素性のわからない悪よりも、見てすぐ『コイツ悪いヤツだぜ!』というわかり易い方がよろしんですよ。その方がまあ、ゴルンの帰還やその仲間たちが浮き彫りになりますもの。とはいえ、執政家の方々以外にも、ゴルンとか一部エルフとかが(映画における)ストーリーの展開上、損なメに。ハルディアなんか死ななくてもよかったのに・・・
 すべては映画の為、この作品全体の為の子羊だったのでしょうか・・・執政家+α・・・
 今だから言える恥ずかしい勘違い
 RotK公開前に日記でネタバレにいくつか触れてしまった、とありましたが、あれは私の大いなる勘違いでした。
 何を勘違いって、まず、@フロドは死ぬと思ってた。・・・・これは、指輪物語を特集した雑誌についていた年表にこんな一文を見てしまったのですよ。『サムワイズ・ギャムジー帰還』 コレを見た私は、『サムが1人で帰ってくるって事は、フロドは指輪を捨てる際に自分も命を落としたんだなあ。メリーとピピンはそのままゴンドールとローハンに残る事にしたんだなあ・・・』と考えてしまったとさ。
 Aファラミアは執政にならなかったと思ってた・・・これはパスポートのキャラ紹介で、デネソールの事を『・・・ゴンドール最後の執政』って紹介してる上、イシリエンの説明に『・・・ファラミアがこの土地の太守になる』ってあったので、『!!ふぁ、ファラミアは執政にならないんだ!!』と思ってしまったんですねー。デネソールについては、多分死ぬんだろうなあ、とか感じつつも、ゴルンと顔を合わせたりするのかしら?と考えてました。もしくは、執政の椅子はボロミアの為に空席にしておいてくれてるのかなあ、と邪推したりして(笑)