「・・・・・・」 1876年、ロンドン・聖バーソロミュー病院。当時としては最大の規模を誇るこの病院の中庭を、1人の白衣の青年がせわしなく歩いていた。 とは言っても彼は医者ではない。医学生である。 ぶ厚い医学書や参考書を脇に抱え、手にはノートを握り締めている。そのノートの端っこに名前が書いてあった。 『ジョン・H・ワトスン』 この時24歳。 ロンドン医科大学4年。明るいとび色の髪と、明るい茶色の瞳。普段は人なつっこい笑顔で人気の彼だが、今、その顔の眉間にはシワが寄り、苦虫を噛み潰したような難しい表情を浮かべていた。 後に軍医となり、あの偉大なる探偵の記録をこの世に残す事になる前のちょっとした、しかし大事な日の出来事である。 丁度その日、バーソロミューの中庭の背中合わせになっている2つのベンチの片側に、何をするでもなく、ただ空を眺めている黒髪長身の青年が座っていた。ぱりっとしたスーツに身を包み、端正な顔つきをしている。 この日の公開講義を終え、一息ついていたその青年の反対側のベンチに誰かが、いささか乱暴にどかっと腰を下ろした。 「ああっ!何でこう、覚えなきゃいけない事だらけなんだ!!僕は医療の講義を取ったんだ!暗記の講義じゃあ、ないはずだ!!」 開口一番、天に向かって誰にともなくグチをこぼし始める。 長めの足を放り出し、両腕をベンチの背に回して、彼はしばし独唱していた。 やがてふと口をつぐみ、長いため息をもらす。 「・・・医者になるのは大変なんだなァ・・父さんもこうだったんだろうか・・」 自分の後ろに人がいるとは露知らず、小さな声で呟いた。 そしてようやく、後ろの方から人のかすかな笑い声がもれるのに気がついた。 「!」 ぱっと後ろを振り向くと、下を向き、笑いをこらえているらしい1人の青年の姿があった。今までの事を聞かれていたと思うと、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。 「あ、いや、その。すみません、人が・・いるとは、その、気がつかなかったもので・・」 その慌てぶりがおかしいのか、青年はさらに笑いを浮かべた。そして、しどろもどろしているワトスンの方を見上げる。 「そんなに慌てないで下さいよ。僕の方こそ、こんなに笑ってしまってすみません。あんまり熱のこもった弁だったので、つい。ええと、ここの学生?」 「ああ、うん。今4年なんだ。」 相手が自分とさほど年の変わらないのを見て、ほっとする。 この青年も学生、だろうか。でも見かけたことが無いし、新入生だろうか。 「僕は学生じゃないですよ。ここの一般講義を聴きに来たんです。」 ワトスンが心に思った疑問を口にする前に答えられてしまった。 そんなに顔に出ていたかなあ、と不思議に思いつつも、とにかく落ち着こう、と短く深呼吸をする。 「さっき言ったとおり、僕はもう4年でね、今何かと試験やら何やらで、ちょっと、その、イライラしてたんだ。まさか人がいるとは思わなくて。君が教授じゃなくてよかったよ。」 黒髪の青年も笑うのをやめ、ワトスンの話を聞いていた。 「やっぱり医者になるってのは大変みたいですね。」 「ああ。普通の免許の他にLSAとMRCSやMDとか諸々の資格も取らなきゃいけないしね。」 「・・将来開業するつもりなんですか?」 略称の意味を知ってるのだろう、青年がたずねた。 「うーん」としばし考えてからワトスンは答えた。 「ま、いずれはね。」 「いずれ?」 「ああ。ここを卒業したら軍医の資格も取ろうと思っているんだ。」 自分で言ってて驚いた。どうして今日ここで初めて会った人にこんな事まで話してしまうのだろう。 「軍医は危険が伴いますよ。」 「これでもね、愛国心はあるほうだと思ってるんだ。体力的にもちょっと自信があるしね。」 「・・何か、スポーツをやってますね。多分・・ラグビー、かな?文武両道なんですね。」 「えっ?」 先ほどと同じだ。まだ話してもいないのにどうして自分の事がわかるのだろう。 しげしげと青年の顔を見ていると、 「そんなに驚かないでくださいよ。」 青年が少し恥ずかしげに笑って言った。 笑うと幾分幼く見える。 「僕、スポーツを観るのが好きなんです。以前、どこかの試合で、あなたに似た人を見たことがあるんですよ。確かあのチームには医学生が大勢いるって聞いてたから、それで。」 「そうなんだ。」 それにしても不思議な青年だとワトスンは思った。自分よりは幾分若いのだろう。公開講義を聴きに来た、ということは高校は出ていて、医学に興味があり、進学先を検討中、といったところだろうか。どちらにしろ、記憶力はいいらしい。 「で、君はどうして講義を?医学に興味があるのかい?」 今度は逆に質問してみた。 「僕は、どちらかというと化学や物理の方に興味があるんです。それである先生にここの公開講義の事を聞いて。」 「へえ、化学に物理。将来は何になりたいんだい?学者?」 「・・それは、まだ決めてないんです。もう少し、色んな知識を身につけたくて。」 微笑を浮かべて青年は答えた。 「学ぶってのはそれだけで楽しい物があるからね・・」 何かを学ぶ事の楽しさ。 彼はプライマリーの頃を思い出そうとした。 一番初めの授業はどんなだったろう、先生は何といったっけ、隣の子はどんな子だったろう・・。 「聞いていいですか?」 「何だい?」 「このまま病院に残ったりはしないんですか?開業だけが医者の道ではないとも思うんですが。」 この質問はワトスンにとっては簡単な質問だった。医者になると決意した時から、すっと想い抱いていた事だったから。 「そりゃあ、確かにそうだけど、僕は学者肌の人間じゃないし、日がな一日じゅう細菌や薬品とにらめっこってのも性に合わない。さっきも言ったけど、国の為に軍務に就いてる人の役に立ちたいんだ。人の命を救う仕事だ。医者ってのは人を治してなんぼの医者だろう?その実践方法のひとつが開業だと思うよ。すぐに開業しないのは、資金がないから。軍医になるのは国のためにもなるし、経験とお金の為だから、かな。・・・ん、どうして笑ってるんだい?何か、おかしい事言ったかな?」 見ると青年は何かおもしろそうに笑みを浮かべている。 「いや、失礼。初めて聞きました。“人を治してなんぼの医者”って。ハハ、確かにそうだ。」 「お、おかしかったかな?」 「いいえ。そんな事は無い、と自信を持って言えますよ。」 きっぱりと青年は答える。その答えを聞いて、ワトスンはうれしそうにほほえんだ。彼の魅力である、見る人を和ますような笑顔が戻った。 「ついでにもう一つ。あなたはきっといい医者になりますよ。」 青年の自信に満ちた物言いと真剣な顔つきに少々面食らいながらも、 「・・ありがとう。がんばるよ。」 力強く返事をした。 「おーい!ジョンっ!次は実習だろ?チコクするぞー!!」 校舎の窓からワトスンを呼ぶ声がした。 「あっ!次あったんだ!」 はっとして立ち上がり、いそいそと本やノートを抱える。 「あ、それじゃあ、僕は行かなくちゃ。その・・何か色々話したらスッキリしたよ。ありがとう。」 「それはよかったです。それじゃあ。」 「じゃあ、また!」 走って去ってゆくワトスン。 そういえば、名前聞いてなかったなァ・・まあ、また会うこともあるだろ。 階段を一段飛ばしで駆け上がってゆく。 一方、青年はワトスンが建物に消えるまで見送っていた。 「ジョン・H・ワトスン・・・」 ノートの端の名前を青年は見ていたのだ。 「・・・おもしろい人だったな。・・」 そうつぶやいてほほえむと、彼は立ち上がった。 その後、ワトスンは病院へ赴く度、あの黒髪の青年がいないか探してみた。 だが、彼を見つけることはなかった。なぜならあの日、彼は最後の講義を聞きに来ていたのだから。 時は変わり、1881年。バーソロミュー病院の科学研究室。 彼はさる大事な実験の最中であった。彼にとっても、世間にとっても有意義な事になるであろう実験だった。 いよいよ結果がわかる、というところで誰かが研究室に入ってきた。 男が2人。1人はスタンフォードだろう。足音でわかる。ではもう1人は? もしかしたら私と部屋をわけあってくれる人物だろうか。それなら仕事を終えたはずの彼がわざわざこの部屋に戻ってきた説明がつく。 ふむ、どんな人物だろう。 一瞬でこんな事を考えていた。 次の瞬間、自分の思っていた通りの結果が目に入った。 「発見したよ!とうとう発見したよ!」 興奮と喜びで声があがる。 くるりと振り返って驚いた。どこかで会ったことのある男がいた。 そうだ、いつかここの中庭で出会ったあの医学生だ。 随分やつれて不健康そうだが確かにあの時の男だ。 もう会う事はないと思っていたが、思いがけない再開だった。 これで同居人は決まった。しかし、彼は私のことを覚えていない様子だ。無理もない、あまりに色んな事があったのだろう。 でも、大丈夫。これからはきっと、楽しく冒険に満ちた日々が訪れるに違いない。そうすればきっと、あの笑顔が戻る日も遠くないだろう。早く見たい。 ・・・僕は、あの日のように、あんなに笑ったことが無かったんだ。それに、初めてだった。あんな笑顔に会ったのは。 スタンフォードが男と共に歩み寄る。 「こちらはドクトル・ワトスン。この方がシャーロック・ホームズさんです。」 「初めまして。」 「・・初めまして、ドクター。あなた、アフガニスタンへ行ってきましたね。」 おしまい |
アトガキ ○ 参考文献○『ホームズとワトスン〜友情の研究〜』ジューン・トムスン著 ってなんかレポートくさいですね。この本によりますと。ホームズとワトスンは、緋色の研究以前に同じ場所(バーツ)にいたことがあるかもしんない、ということだったので、どうせだから会わせてみました♪若ホム、若ワト☆ ええと、ワトスンは戦争で死にそうな目にあったので、つい、忘れちゃった、という事で。仕方ないです!お国のため!! ちなみに、本文中で、ホームズがワトスンの試合を見たことがある、というのはウソです。本当はワトスンの医学生のクセに日に焼けた、たくましい体つきをみて、(手なんかも見て)推理したんですよ。ハイ。 こんなほんわかパロディ、色々書きたいですね〜。それでわー! 自己紹介でも書きましたが、私、腐れシャーロキアンです。リーグに惚れたのもきっとヴィクトリア朝、というのも原因の一つだと思うのですよ。ここに来てくださる方々の中で、ホームズ知ってる方がどれ位いるのかわかりませんが、ホームズ面白いですよ〜♪・・完全なるCMですな。 リーグの中のあの時代が好き、という方も昔読んだことがある方も、ぜひもう一度本を開いてみませんか? いろんな意味でドッキドキですよ〜☆ |