幼い頃に、母を亡くした。今となってはその記憶もおぼろげとなっている。 唯一、小さな肖像画の中で静かに優しく笑う母がだけが、色を持っていた。 幼い私は寂しくなると1人こっそりこの肖像画を観に来ていた。 小さいながらも私は、ささやかな秘密をいくつか持っていたのだった。 若葉萌ゆる春。かすかに花の香をのせた風が、やさしくそよいでいる。 ミナス・ティリスの城。執政デネソールの次男、ファラミアは午前の読み書きの授業を終え、中庭で花を眺めていた。手には植物の図鑑を持っている。目の前の色彩鮮やかな花々と図鑑とを見比べ、うれしそうに笑っていた。 「ファラミア様。」 侍女の1人がやってきて、昼食の時間だと告げた。 「父上は?」 とことこと歩きながら侍女に尋ねる。 「デネソール様は会議が長引いておられます。」 「じゃあ、兄上は?」 期待に満ちた瞳に、侍女は少し気の毒そうに眉をゆがめ、笑みをこぼす。 「ボロミア様は、今日は剣のお稽古でこちらには戻られないかと。」 「・・・・・」 みるみる内にしぼんでゆく笑顔。 「・・あにうえ、いつ、来るの?」 「夕方には戻るとおっしゃっていました。」 ファラミアは5つ上の兄が大好きだった。 物心ついた頃に母が死に、その後は乳母と兄が彼の面倒をみていた。 特に兄はよく弟に気をかけていた。幼くして母を亡くしたこの弟が寂しくない様に。それが兄としての務めだと思ったから。 しかし、務めだ何だとは関係なく、兄はたった1人の弟が、弟はこの優しい兄がだいすきだった。 だが最近、12歳となったボロミアは徐々に執政家の長男としてやるべき事、習うべき事が増え、以前と比べ一緒にいる時間は少しづつ、確実に減っていたのである。 1人で昼食をとり、ファラミアは再び中庭をブラついていた。 庭の中央には円形の噴水があり、そこから流れ出る水は小さな流れとなり、庭の隅々へと伸びている。 噴水を挟んで右には小さな東屋があり、左には池があった。その池には浮島があり、それに続く石橋がふたつ。池の周囲には木が数本植えられている。木はまっすぐ天に向かって伸び、若葉を揺らし、水面に涼しげな影を落としていた。 ファラミアは浮島の淵でしゃがみこみ、じっと水面をながめる。 太陽の光が反射し、チラチラと輝いた。 「はやく、大きくなりたい。そうすれば・・」 そうすれば、兄と一緒にいられる。兄の習い事についていけるようになる。 見上げる兄のなんと大きな事か。いつか、肩を並べる事ができるのだろうか。 憂い顔が水に映る。 ふう、と小さくため息を漏らし、彼は再び水面を眺めた。 「ファーラーミーアー!」 不意に彼の名前を呼ぶ声がした。振り向くと彼と同じ年頃の子供たちが数人、手を振りながらこっちへやって来る。みんな城の武将や兵士、使用人達の子供であった。身分の差など露にもかけず、彼らはよく一緒に遊んでいた。 「遊ぼうよ!」 「・・うん!」 そうしてファラミアは子供たちの輪の中に入っていった。 太陽が傾き、空がほんのり紅に染まり始めた頃。一日中剣の稽古に明け暮れていた執政家の長男が稽古を終え、城へと戻ってきた。 歴史や詩歌などの勉強が苦手な彼は、体を鍛えたり剣や弓などの武器の訓練をする方が断然好きだった。日ごと強くなっていく実感があり、そんな自分が誇らしかった。 剣を腰に下げたまま足取りも軽く回廊を進むと、彼の視界に小さな少女が入ってきた。不安げにおろおろと辺りを見まわしている。彼はその子に見覚えがあった。弟と、ファラミアと一緒に遊んでる子供たちの1人だ。ボロミアもよく弟とその友人たちの相手をしていたので、彼らのことは知っていた。 「テレサ?」 優しく声をかけると、テレサと呼ばれた少女がぱっと顔を輝かせ、ボロミアの方へ駆け寄った。ボロミアはかがみこみ、テレサの頭に優しく手を置く。 「どうしたんだい?こんな所で。もう日が暮れるよ、帰る時間じゃないのかい?」 縮れた黒髪をなでられたテレサは一瞬嬉しそうに笑ったが、すぐに顔を曇らせ、瞳が潤み始めた。 「あのね、ボロミアさま。私たち、みんなとファラミアさまと、かくれんぼしてたの。そしたらね、ファラミアさまがみつかんないの。もう、日が暮れるのに・・。」 「ファラミアが・・・。そうか、わかった。教えてくれてありがとう。皆でファラミアを探してるのかい?」 「うん。」 「じゃあ、ファラミアは私が探すから、他の子達にもう帰るように、伝えてくれるかい?」 「うん。」 「いい子だね。」 「ふふ。」 最後の言葉にテレサは嬉しくなって笑うと、スカートの端をひょいとつまみ、ちょこん、とおじぎをした。ボロミアはその仕草を見るとくすり、と笑い、右手を左胸の辺りにあて、すました風に返礼する。 「それじゃあね、ボロミアさま。」 その返礼にすっかり気をよくし、テレサはぱたぱたと駆けていった。 それを見送るとボロミアは立ち上がり、窓の外を眺めた。 「さて、と・・。」 小さくつぶやくと足早に回廊を進む。 ファラミアの、弟の行く先は見当がついていた。 弟のお気に入りの場所。きっとそこにいるに違いない。 しかられた時やケンカをした時も、彼はそこにいた。そして時には日が昇る前、もしくは城が寝静まった夜に、あの小さな肖像画を持って消えることも、彼は知っていた。 「知ってるんだぞ、ファラミア。僕はお前の兄さんなんだから。」 ボロミアは階段を降り、とある一室に向かう。そこは隅の方にある客室で、普段からあまり使われる事が無い。だが、その部屋の出窓は大きく、窓からひょいと身を乗り出し、その屋根の上に上がりこめるようになっていた。きっとそこに弟はいる。 足音を忍ばせ、気づかれないようにこっそり部屋に入る。 「ファラミア。」 「!あ、兄上!?」 「やっぱりここか・・。」 そう言うとボロミアはファラミアの隣に腰を下ろした。 「・・・・・」 バツの悪そうに下を向くファラミア。そんな弟をちらっと見やる。 「皆が探していたぞ。」 「・・・・」 「かくれんぼ、してたんだって?」 「・・・・」 「かくれんぼで隠れるような場所じゃないよな、ここは。」 「・・・・皆は?」 「家へ帰したよ。」 「・・・」 それでもなお下を向き、ぎゅっとひざを抱えて黙り込むファラミア。 彼がかくれんぼの最中に抜け出したのには訳があった。一緒に遊んでいた中に、兄弟がいたのだ。弟はファラミアより1つ下で、その兄は2つ上の兄弟である。その弟が走っている時に転んでしまい、ひざをすりむいた。わんわん泣きじゃくる弟に、大丈夫かと兄が駆け寄って、あやしてくれたのだ。その光景を見ている内に、ファラミアは突然悲しくなり、訳も解らずその場を去っていったのである。 今にも泣き出しそうな弟を見て、ボロミアもまた一瞬悲しげな表情を浮かべた。しかし、すぐに口の端を上げて笑みをつくる。そして無言でひょいと腕を伸ばすとファラミアを抱え上げ、自分のひざに、向き合うようにして乗せた。 「!」 「ファラミア。」 いつもより一層優しい声だった。その声にひかれる様にファラミアはゆっくりと顔を上げた。そこには兄が、大好きな兄の顔があった。 この季節の木々よりも深くて優しいふたつのみどり色。ファラミアの大好きないろ。 「ファラミア。」 ボロミアがもう一度弟の名前を呼ぶ。 「あに・・うえ・・」 やっと自分の声に応じたのでにこっと微笑むボロミア。 「ごめんな、ファラミア。最近あんまり一緒にいてあげられなくて。」 少しクセのある、自分と同じ色の髪を優しくなでながら兄は弟に話しかけた。 ぶるぶると首を横に振るファラミア。 「そ、そんなこと、ないよ。」 「今度から食事くらいは一緒にとるようにしような。」 「・・うん!」 ぱあっ、と一瞬の内にファラミアの顔に笑顔が戻った。その笑顔を見て、ボロミアはぎゅっと弟を抱きしめる。 「・・?兄上?」 「・・・ファラミア、ごめんな。僕はお兄ちゃんなのに、お前に寂しい思いをさせちゃって。」 「ち、違うよ。兄上のせいじゃ、ないよ。」 「寂しいから、ここに来たんだろう?」 「あ・・」 こんな小さな弟に無理をさせた自分が、兄としてふがいなかった。 抱きしめる腕に力がこもる。 「ごめん、 ファラミア。寂しい思いさせて。お前に無理させて。」 「・・・・」 さびしかった。毎日顔をあわせていたかった。毎日遊んでほしかった。 でも、いつの頃だろう。兄や自分は普通の家の子とは違う。少し特別なのだと。 やらなければいけない事が、父にも兄にも自分にもたくさんあるから。自分のワガママで父や兄を困らせてはいけないのだと、いつからかそう思う様になっていた。 父上や兄上を困らせてはいけない。ワガママを言ってはいけない。我慢しなければ。 「・・無理しなくていいんだよ。」 「あ、兄上・・う、ヴわあああーっ・・・・」 堰を切ったように涙が溢れた。次から次へと、とめどなく。 兄の言葉で心のどこかにいつの間にかつっかえていた何かがふっと、消えてしまった。 ファラミア自身、自分に何が起きたのかよくわかっていない。どうして涙が出てくるのか。何でこんなに泣きたいのか。 ただわかる事といえば、自分を包んでくれる兄の腕のあたたかさと、その口から出てきた言葉がうれしかったという事だけだった。 しばらくの間、ファラミアは兄にしがみついて泣いていたが、それもようやくおさまってきた。まだ少しヒクヒク言いながら、ファラミアはしがみついていた手を離す。 「・・ック・・肩、・・のトコロ・・濡れちゃった・・・っク・・」 「すぐ乾くよ。」 そう言って指で涙をぬぐう。そしてなでる様に髪をすいて、ボロミアはもう一度ファラミアを胸に抱きしめた。 まだ乾かないほほを胸にうずめながら、ファラミアは口を開く。 「・・兄上、どうして、ここにいること、わかったの?」 「・・知らないと思ってたのか?」 弟の顔を見下ろす。 「ここはお前のお気に入りの場所だろう?知ってるんだぞ。」 そう言ってボロミアはひょいと弟を持ち上げ、くるっと向きを変えると、またひざの上に乗せた。 ファラミアは兄の胸にすとん、と背を預け、まだ赤くはれた瞳をくるっと上へ向ける。 「目、赤いな。後で冷やさないと。」 目じりの所を軽く指でぬぐう。 「ここはファラミアのお気に入りなんだろ?秘密基地みたいだし、人もあんまり来ないし、景色もいいし。」 みどりの瞳が自分を見つめる。 「・・うん、そうだよ。ここは僕と兄上のヒミツの場所だよ。」 「僕もいいの?」 「うん。」 大きく首を振る。 「そっか、ありがとう、ファラミア。ここは良い場所だよ。」 そう言ってボロミアは優しく弟を抱きしめ、その頭にキスをする。そしてふざけるようにアゴを乗せ、グリグリと動かした。 「あ、あにうえ、イタイよ〜」 「男だったらこれ位ガマンしないと。」 「いたいものはイタイよ・・」 2人は声をあげて笑った。 小さいながらも、私はささやかな秘密を持っていた。 兄も、ボロミアも知らない、私だけの秘密。 確かにそこは秘密の隠れ家だった。でも、 私の一番のお気に入りの場所は、やさしくて大好きな兄の、腕の中だった。 いつもあたたかくて、心地よい、私だけの大切な場所。 その腕に抱かれて見上げる2つのみどりには私しか映らず、そこから私は、絵の中の母の様な明るくさらりとした髪に手を伸ばす。 ここは私だけの場所。私しか知らない秘密の場所。 今も昔もかわらず、大好きな場所。 いつの間にかファラミアは眠っていた。ボロミアの腕の中で。 ボロミアはそっと、起こさない様にファラミアを片腕に抱き、器用に部屋に戻っていく。もう日は暮れていた。 乳母に何と言い訳しよう、父にまで知れ渡っていたらどうしよう。どんなに叱られたってかまわない。詩の暗誦を言い渡されたっていい。 今日はずっと一緒にいてあげよう。朝起きて、弟が寂しい思いをしなくて済むように。 ボロミアは目を腫らした弟のまぶたにそっと口づけを落とす。 今夜、冷やしてあげないと。少し早足で彼は城へ入っていった。階段を上り、ふと踊り場で足を止め、窓の外を見る。 白い月が出ていた。それを見上げながら何やら考え込み、ぼそりとつぶやく。 「・・・やっぱり、詩の暗誦はイヤだなァ・・」 END |