大西洋の真ん中を漂う客船・ヴァージニアン号。 最近、この船には名ピアニストがいる、という事で話題になっている。 イギリス−アメリカ間を往き来するこの客船は、いつもの様に多くの人々で賑わっていた。 今日も2等客室の雑多な人々がごった返す大部屋で、この船の楽団のピアニスト・ナインティーンハンドレッドが人々のリクエストに応じて即興で曲を奏でていた。見た事のない国の聴いた事のない音楽を、この天性の才能を持つ不思議な境遇のピアニストは奏でることができたのである。 国籍も年齢も様々な人々の中、一人、その場にそぐわない男がそのピアノに耳を傾けていた。少し古風なつくりのスーツにゆるりと肩にかかるほどの黒髪、白肌の顔には、まるで吸い込まれてしまいそうな黒い瞳がのぞいている。 その男はナインティーンハンドレッドの奏でる音楽と、人々の声と踊りを満足そうに眺めていた。 −その夜− 人気のなくなった2等客室のサロン。 明かりの無い暗闇を白い月の光がぼんやりと射しこみ、その月明かりを受けて反射する水面の白い筋がキラキラと、部屋の天井に瞬いている。 ポロン−−− どことなく物憂げなナインティーンハンドレッドが白い鍵盤を叩く。そして すうっ と眼を閉じ、両の手を鍵盤の上にかざすと、おもむろに指を動かし始めた。 「・・・・・・」 瞳を閉じたまま、月の光を仰ぐようにナインティーンハンドレッドは指を動かす。そこから生まれ出る音色は不思議な音色だった。静かで、優しく、そしてどこか冷たさを感じさせる、相反するものがそこに行儀良く同席している様な、奇妙な調和がそこにあった。時に速く、そして強い調子で進んでいく。 やがて、鍵盤をなぜる指の動きが止まった。 ふう、と一息ついたナインティーンハンドレッド。 パチパチパチパチ・・・ 不意に後ろから拍手が起こる。しかし、彼に慌てた様子はなく、ゆっくりと振り向いた。 「Good evening, Mr.」 軽く会釈をしながら営業用の笑顔を向ける。そこには一人の紳士が立っていた。 「・・・確か、昼間もここにいませんでした?」 「・・・覚えているのか?」 「ええ。記憶力はいい方なので。こんな夜中に散歩ですか?」 「・・・君のほうこそ、こんな夜中に一人で演奏会か?あんなに良い曲なのに、誰も聴く人がいないなんて、もったいない。」 流暢で程よく低いクイーンズ・イングリッシュで話しながら、男は木製の長椅子に腰かける。その動作の一つ一つが優雅で無駄が無く、スマートであった。 「君の噂は良く聞いているよ。一度、その音楽が聴きたくてこの船に乗ったんだ。」 「それはどうも。」 「・・・一度も陸に降りた事が無いというのは本当かね?」 「・・・ええ、本当です。」 「ナインティーンハンドレッド、というのは、本名?」 「ええ。父がつけてくれた名前です。1900年に生まれたから。本当はもっと長いんですよ、ダニー・ブードマン・TDレモン・ナインティーンハンドレッド、と言うんですよ。」 ・・・どうしてだろう、今夜の自分は何故か饒舌になっている、そう感じた。その紳士の事が何故か気になった。どういう訳かはよくわからない。だけど、その紳士の持つ、一種独特の雰囲気はひと目見たときから感じていた。でも、この雰囲気は、どこか・・・・ 「・・・どうかしたかい?Mr.ピアニスト。」 くすり と紳士が笑った。 「・・・いいえ、すみません。」 「ところで、先ほどの曲は・・・君が?」 「ええ。」 「即興かな?」 「はい。僕の曲はたいていその場で作るんですよ。つくる、というのは適当じゃないな・・・こう、僕の意思とは関係無しに頭と指とが勝手に曲を、ピアノを奏でているんです。」 「・・・私は色んな所を訪れ、様々な音楽を聴いてきたが、君の様な音楽は初めて聴いたよ。素晴らしい。いや、こんな言葉で片付けるのが出来ない程に・・・良かったよ。」 「ありがとうございます。その、貴方は、ロンドンの方ですか?」 「・・・まあ、そんな所かな。君は?」 その質問に口の端をわずかに持ち上げた後、ナインティーンハンドレッドは答えた。 「・・・ここです。ヴァージニアン号のどこかですよ。一等客室の、ピアノの上に置かれていたそうです。」 「・・・本当に船の上で生まれたのか。」 紳士が僅かに眼を見開き、驚きの声をあげる。 「・・・ずっと船の上で生きてきたんです。僕には戸籍もなければ、どんな身分証明証も持っていないんですよ。」 ポロン 鍵盤をひとつ叩く。 「この船の上しか知りません。それと、海と。あ、港の風景くらいは何千回も見てるかな。」 ポ・ポ・ポン ころころと笑いながらナインティーンハンドレッドは続けて鍵盤を叩いた。 「・・・」 その様子を見ながら、紳士は一瞬瞳を閉じ、そして開ける。そしておもむろに立ち上がると、ゆっくりとピアノの方へ歩き出した。 カツ カツ カツ カツ・・・ 静かな部屋の中、靴音が響く。その様子をただ黙ってナインティーンハンドレッドは眺めていた。 「・・・限られた世界しか知らない、ピアニスト。か。」 ナインティーンハンドレッドの前に立つと、紳士は呟いた。 「・・・私もね、似たような、境遇なんだよ。Mr.ピアニスト。」 その言葉にぴくりと眉を動かすナインティーンハンドレッド。 「私も、限られた世界しか知らない。」 「・・・でも、さっき色んな所を訪れたって。」 「ああ、それは本当さ。」 「じゃあ、どうして僕と同じなんです?」 「・・・・」 すこし自嘲気味に紳士が笑った。 「・・・・言葉で説明するのは少し難しいな。」 そう言うと窓の方を向いて、右手で顎を押さえながら言葉を探す。 「・・・無限と有限というのは、一見まるっきり違うようだけれど、その性質には共通するものがある。・・・そう、思わないか?」 「?」 怪訝そうな顔をするナインティーンハンドレッド。 「君は限定された世界に住んでいる。だからこそ、無限の音楽が奏でられるんだろう・・・きっと。」 「!」 「そして私は、無限に続く世界に生きている。だから、どれだけ多くのものを見ても、色んな事を体験しても、結局は無意味なんだ。終わりが無いんだよ。私の世界には。どんなものも色を失い、決して朽ちる事が無い。無意味な世界なんだ。」 「!」 2人の間に沈黙が流れる。白い月明かりに照らされた紳士の姿がやけに空虚に見えた。 そこにいるけれど、そこにいない。そんな様な。 ポロン また、ナインティーンハンドレッドが鍵盤を叩く。 「私の言ってる事が信じられないかね?」 「・・・いいえ。」 ポロン 「・・・その感覚は、よくわかります。」 彼の頭は澄みきっていた。 それは、彼と自分がひどく似たような境遇の持ち主だと、理解ってしまったから。 「・・・私が怖いかね?」 「いいえ、ちっとも。世界は広く、歴史は深い。・・・貴方の様な方がいてもおかしくないんじゃないかなって、思うんです。」 そう言ってにっこり笑う。 今度は営業用ではない、本当の笑顔だった。 「・・・私たちは、不器用者だな。」 「ええ、とっても。」 「・・・一曲、弾いてもらえないかな?Mr.ピアニスト。君と出会えた記念に。」 「『ナインティーンハンドレッド』で結構ですよ。」 そう言うとナインティーンハンドレッドは姿勢を正し、両の手を鍵盤の上に置いた。 そして、ゆるく瞳を閉じる。 ざざぁ 波の音がかすかに聞こえる部屋に、緩やかに旋律が流れていった。 瞳を閉じながら、ピアノに寄りかかるように紳士はその音色に身を任せていた。 音が、静かに、優しく部屋を満たしていった。 やがて、音が止むと、少し間を置いてから紳士はパチパチと手を叩く。 「ブラヴォー。」 「どういたしまして。」 少し気取った様にしゃんとお辞儀をするナインティーンハンドレッド。 「・・・僕の音楽で、貴方の世界が少しでも色を持ってくれたのなら良いのだけれど。」 「少しだなんてとんでもない。これでしばらくは楽しい気分で過ごせるよ。ありがとう、ナインティーンハンドレッド。」 そう言って笑った紳士の顔は、とても魅力的だった。 ピアノを奏でている時の自分の顔も、恐らくあんな感じなのだろう。 そしてナインティーンハンドレッドはすっと手を伸ばした。紳士がまた僅かに微笑み、その手を握る。 「・・・そうだ、Mr.。この曲に名前をつけてくれませんか?今日の、記念に。」 「名前?私がつけていいのかい?」 「ええ、もちろん。」 「ふむ、そうだな・・・・・こんなのはどうだい?『unti the world capriccio』。」 にやり、と紳士が笑った。 「unti the world capriccio・・・いいですね。面白い。」 その名前が気に入ったのか、ナインティーンハンドレッドも笑みを浮かべた。 「おや。」 ふと窓をみると、はるか地平の先が、ぼんやりと白んでいるのが見えた。 「なんだ、いつの間にか時間が経っていた様だな。・・・そろそろお開きにしようか。今夜は楽しかったよ、ありがとう。」 「こちらこそ。貴方のような人と会えてよかった。・・・また、ピアノを聴きに来て下さい。」 「ぜひ、そうさせてもらうよ。では。」 踵を返し、ドアに向かって歩き出す。ノブに手を掛けて、何か思い出したようにこちらを振り返った。 「私とした事が。まだ名乗っていなかったね、失礼した。」 「僕も聞くのを忘れていました。Mr.、お名前は何というんですか?」 「・・・グレイ。ドリアン・グレイだ。」 「おやすみなさい、Mr.グレイ。良い夢を。」 「おやすみ、ナインティーンハンドレッド。君も、な。」 微かに笑みを浮かべて軽く会釈をすると、グレイは部屋を出て行った。 ポロン 鍵盤を叩きながら、ナインティーンハンドレッドは外の景色を眺める。 今夜はとてもたのしかった。思いもかけない体験をした。 あの人と、自分の気持ちがわかる人と出会えて、良かった。 「船の上も、すてたものじゃない。」 こんな事だって、起きるのだ。 ポロン そうしてナインティーンハンドレッドは、満足そうに微笑んだ。 END |